{ンのことなど。私たちは無邪気な事柄を口にして、そしてどちらも顔をあからめる。少女は若い娘となっている。
 あの晩――夏の晩だった――私たちは庭の奥のマロニエの木の下にいた。いつもよく散歩のあいだじゅう続く長い沈黙の後で、彼女は突然私の腕を離れて、駆けましょう、と私に言った。
 その姿がまだ私の目に残っている。彼女は祖母の喪のためにすっかり黒の服装だった。彼女の頭に子供らしい考えがうかび、ペパはまた小さなペピタとなって、私に言った、駆けましょう!
 そして、彼女は私より先に、蜜蜂の胸のようにすらりとした体と小さな足とで、すねのなかばまで長衣をまくらせながら駆けだしはじめた。私は後を追っかけた。彼女は逃げた。彼女の黒い肩衣《かたぎぬ》はときどき駆ける拍子に風を受けてまくれて、その褐色のみずみずしい背が私に見えた。
 私はむちゅうになっていた。廃《すた》れた古い水溜めの近くで彼女に追っついた。打ち勝った元気で彼女の帯のところをつかまえて、ひとむらの芝生の上に座らせた。彼女はさからわなかった。息を切らして笑っていた。私はまじめだった。彼女の黒い睫毛《まつげ》ごしにその黒いひとみを眺めていた。
「お座りなさいよ。」と彼女は私に言った。「まだ明るいわ。何か読みましょう。ご本を持っていらしって?」
 私はスパランツァーニの旅行記の第二巻を手にしていた。いいかげんのところを開いて、彼女のかたわらに寄った。彼女は私の肩に自分の肩をもたした。そして私たちは同じページをべつべつにごく低く読みはじめた。ページをめくる前に、彼女はいつも私を待たねばならなかった。私の頭は彼女ほど早く進めなかった。
「すんで?」と彼女は私がまだ読みはじめたばかりなのに聞くのだった。
 そうしてるうちに、私たちの頭は触れあい、髪の毛は一緒になり、息はしだいに近よって、突然口と口とが合わさった。
 また読みつづけようとした時には、空に星が出ていた。
「ああ、お母さま、お母さま、」と彼女は家のなかにもどると言った、「あたしたちはそりゃあ走ったわ!」
 私のほうは黙っていた。
「なんにも言わないで、」と私の母は私に言った、「あなたは悲しそうなふうですよ。」
 私は心のなかに天国を持っていた。
 その晩のことを、私は生命《いのち》のあるかぎり忘れないだろう。
 生命のあるかぎり!

       三四

 ただいま時が
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