ネ事柄であり、個人的な事柄であり、固有名詞的な事柄である。それは羨望者であって、善良な法律家にも偉大な芸術家にもともに現われてくる。フィランジエリに対してはジョゼフ・グリッパのような者が常にいるとともに、ミケランジェロに対してはトレジアーニのような者が常におり、コルネイユに対してはスキュデリーのような者が常にいる。
 われわれが言葉をかけるのは、そういう者へではなくて、本来の法律家へであり、弁証論者へであり、理論家へであり、死刑のために、その美と善の恩恵とのために、死刑に賛成する人々へである。
 ところで彼らは多くの理由をあげる。
 裁判し処刑する側の人々は、死刑を必要だと言う。第一に、なぜかなれば、社会共同体からすでにその害となりなお将来害となりうる一員を除くことは大事なことだと。――しかし、もしそれだけのことであったら、終身懲役で十分だろう。死が何の役にたつか。監獄では脱走の恐れがあるというならば、巡警をなおよくすればよい。鉄格子の強さでは不安心だというならば、どうして他に動物園などを設けておくのか。
 看守で十分なところには、死刑執行人の要はない。
 けれども、社会は復讐しなければならない。社会は罰しなければならない、と次に彼らは言う。――しかし、どちらもそうではない。復讐は個人のことであり、罰は神のことである。
 社会は両者の中間にある。懲罰は社会より以上であり、復讐は社会より以下である。それほど偉大なこともそれほど微小なことも社会にはふさわしくない。社会は「復讐するために罰する」ことをしてはいけない。改善するために矯正する[#「改善するために矯正する」に傍点]ことをなすべきである。刑法学者の慣用の文句をそう変えれば、われわれも了解し同意する。
 第三の最後の理由、実例論が残っている。すなわち、実例を見せてやらなければならないと。罪人がいかなる目にあうかを示して、同様な心をおこす人々を恐れさせなければならないと。――これが多少調子の差はあるけれど、フランスの五百の検事局の論告が千篇一律に用いるほとんどそのままの文句である。ところで、われわれは実例をまず否定する。刑罰を示して所期の効果を生ずるというのを否定する。刑罰を示すことは、民衆を訓育するどころか、民衆の道徳を頽廃させ、その感受性を滅ぼし、したがってその徳操を滅ぼす。例証はたくさんあって、いちいちあげてい
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