ルうだけに心を向けようとした。が、司祭の言葉は、喧騒のためとぎれてよく聞こえなかった。
 私は十字架像を取ってそれに接吻した。
「御慈悲を、神よ!」と私は言った。――そしてその一念のうちに沈潜しようとつとめた。
 しかし冷酷な荷馬車の動揺は私の心をゆすった。それから突然私はひどい寒さを覚えた。雨はもう服をしみ通していたし、みじかく刈られた髪を通して頭の皮膚をぬらしていた。
「寒さにふるえていますね、あなた。」と司祭は私にたずねた。
「ええ。」と私は答えた。
 悲しいかな、ただ寒さのためばかりではなかった。橋からまがってゆく角のところで、私の若さを女どもが憐れんでくれた。
 私たちは最後の河岸に進んだ。私はもう目が見えず耳が聞こえなくなりはじめた。それらの人声、窓や戸口や商店の格子窓や街灯の柱などに積み重なってるそれらの頭、貪欲な残忍なそれらの見物人、皆が私を知っていて私のほうでは一人も知らないその群集、敷石も壁も人の顔でできてるその街路……私は酔わされ、茫然とし、白痴のようになっていた。あれほど多くの人の目が自分の上にのしかかってくることは堪えがたいものである。
 私は腰かけの上にふらふらして、もう司祭にも十字架にも注意をかさなかった。
 周囲の騒擾《そうじょう》のなかに、憐れみの叫びと喜びの叫びとを、笑いと嘆きとを、人声と物音とを、私はもう聞きわけられなかった。それらはみな一つの轟きとなって、銅の太鼓の中のように私の頭のなかに鳴りわたった。
 私の目は機械的に商店の看板を読んでいた。
 一度私は異様な好奇心にかられて、自分の進んでるほうをふりむいて見ようとした。それが、私の知性の最後の挑戦だった。しかし体はいうことをきかなかった。私の首すじは麻痺《まひ》して、前もって死んだようになっていた。
 私はただ横手に、左のほうに、河のむこうに、ノートル・ダームの塔をちらと見ただけだった。そこから見ると、その塔はもう一つの塔を隠している。見えるのは旗の立った塔だけだ。塔の上には多くの人がいた。彼らはよく見えたにちがいない。
 そして荷馬車はますます進んでゆき、商店はつぎつぎに通りすぎ、看板は書いたのや塗ったのや金色のがひきつづき、いやしい群集は泥のなかで笑い躍った。そして私は、眠ってる者が夢のままになるように、連れてゆかれるままに自分をまかせた。
 突然、私の目に映っていた
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