そしてマリユスは、おそらく読者が想像するほど心を動かされてはいなかったであろうが、一時間ばかり前から意外な恐ろしいことにもなれてこざるを得なかったし、目の前で一徒刑囚の姿が徐々にフォーシュルヴァン氏の姿に重なってくるのを見、痛むべき現実にしだいにとらえられ、その場合の自然の傾向として、相手と自分との間にできたへだたりを認めざるを得ないようになって、こう言い添えた。
「私は、あなたが忠実にまた正直に返して下すった委託金について、一言も言わないではおられないような気がします。それは実に清廉な行ないです。あなたはその報酬を受けられるのが正当です。どうかあなたから金額を定めて下さい、それだけ差し上げますから。いかほど多くとも御遠慮にはおよびません。」
「御親切は感謝します。」とジャン・ヴァルジャンは穏やかに答えた。
 彼はしばらく考え込んで、人差し指で親指の爪《つめ》を機械的にこすっていたが、やがて口を開いた。
「もうほとんど万事すんだようです。そして最後にも一つ残っていますが……。」
「何ですか。」
 ジャン・ヴァルジャンはこれを最後というように躊躇《ちゅうちょ》しながら、声という声も出さず、ほとんど息もしないで、言った、というよりむしろ口ごもった。
「すべてを知られた今となっては、御主人としてあなたは、私がもうコゼットに会ってはいけないとお考えになるでしょうか。」
「その方がいいだろうと思います。」とマリユスは冷ややかに答えた。
「ではもう会いますまい。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
 そして彼は扉《とびら》の方へ進んでいった。
 彼はとっ手に手をかけ、閂子《かんぬき》ははずれ、扉は少し開いた。ジャン・ヴァルジャンは通れるくらいにそれを開き、ちょっと立ち止まり、それからまた扉をしめて、マリユスの方へ向き直った。
 彼はもう青ざめてるのではなく、ほとんど色を失っていた。目にはもう涙もなく、ただ悲壮な一種の炎が宿っていた。その声は再び不思議にも落ち着いていた。
「ですが、」と彼は言った、「もしおよろしければ、私は彼女に会いにきたいのです。私は実際それを非常に望んでいます。もしコゼットに会いたくないのでしたら、あなたにこんな自白はしないで、すぐにどこかへ行ってしまったはずです。けれども、コゼットのいる所に留まっており、やはり続けて会いたいと思いますから、すべてを正直にあなたに申さなければならなかったのです。私の考えの筋はおわかりでしょう、容易にわかることです。私は九カ年以上も彼女といっしょにいたのです。私どもは初めは大通りの破家《あばらや》に住み、それから修道院に住み、次にリュクサンブールの近くに住んでいました。あなたが始めて彼女に会われたのはリュクサンブールでですね。彼女の青いペルシの帽を覚えておいでですか。それから私どもは、アンヴァリード街区に行きました。鉄門と庭とのある家です。プリューメ街です。私は小さな後庭の離れに住んでいて、そこからいつも彼女のピアノを聞いていました。それが私の生命でした。私どもは決して別々になったことはありませんでした。九年と何カ月か続いたのです。私は実の親のようであり、彼女は実の娘のようでした。あなたにもよくおわかりかどうか知りませんが、ポンメルシーさん、今立ち去ってしまい、もう彼女に会わず、もう彼女に言葉もかけず、まったく彼女を失ってしまうのは、実にたえ難いことです。もし悪いとお考えになりませんでしたら、私は時々コゼットに会いにきたいのです。たびたびは参りません。長居もいたしません。表の小さな室《へや》にきめていただいてもよろしいです。階下《した》の室ででもよろしいです。召し使い用の裏門から出入りしてもかまいません。しかしそれではかえって怪しまれましょう。やはり普通の表門からはいった方がよろしいでしょう。まったくのところ私は、なおコゼットに会いたいのです。どんなにまれにでもよろしいです。私の地位になって考えて下さい。私はそれ以外に何の望みもありません。それにまたもちろん用心もしなければなりません。私がまったくこなくなれば、かえって悪いことになり、人から不思議に思われるでしょう。で最も都合よくするには、夕方参った方がいいでしょう、夜になろうとする頃。」
「毎晩こられてもよろしいです。」とマリユスは言った。「コゼットにお待ちさせます。」
「御親切はありがたく思います。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 マリユスはジャン・ヴァルジャンにお辞儀をし、幸福は絶望を扉《とびら》の所まで送り出し、そしてふたりは別れた。

     二 語られし秘密の中の影

 マリユスの心は転倒してしまった。
 コゼットのそばについてるその男に対して、彼がいつも感じていた一種のへだたりは、今や彼にも了解できた。その男の身には何となく謎《なぞ》のような趣があって、彼は本能からそれに気づいていたのである。謎というのは、最も忌まわしい汚辱、徒刑場だった。あのフォーシュルヴァン氏は徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであった。
 幸福の最中に突然そういう秘密を知ることは、あたかも鳩《はと》の巣の中に蠍《さそり》を見いだすがようなものだった。
 マリユスとコゼットとの幸福は、今後かかるものと隣《となり》しなければならないように定められていたのか。それはもう動かし難い事実だったのか。成立した結婚の一部としてその男を受け入れなければならなかったのか。もはやいかんともする道はなかったのか。
 マリユスは徒刑囚ともまた離れ難い関係となったのか。
 いかに光明や喜悦の冠をいただこうとも、人生の紅の時期を、幸福な愛を、いかに味わおうとも、それを忍ぶことができようか。かかる打撃は、恍惚《こうこつ》たる大天使をも、光栄に包まれたる半神をも、必ずや戦慄《せんりつ》させるであろう。
 かかる限界の激変の常として、マリユスは自ら責むべき点はないかを顧みてみた。洞察《どうさつ》の明を欠いてはいなかったか。注意の慎重さを欠いてはいなかったか。いつとなくうっかりしてはいなかったか。おそらく多少その気味があったかも知れない。ついにコゼットとの結婚に終わったその恋愛事件のうちに、まず周囲のことを明らかにしないで、不注意にふみ込んでゆきはしなかったか。およそ吾人が生活から少しずつ改善されてゆくのは、吾人が自ら自身に対してなす一連の認定によってであるが、彼も今、自分の性質の空想夢幻的な一面を自認した。そういう一面は、多くの者が有する一種の内心の雲であって、熱情や悲哀の激発のうちにひろがってゆき、魂の気温に従って変化し、その人全体を侵し、その本心を霧に包んでしまうものである。われわれは前にしばしば、マリユスの個性のこの独特な要素を指摘しておいた。マリユスは今になってようやく思い起こした、自分の恋に酔いながらプリューメ街で、無我夢中になっていた六、七週間の間、あのゴルボーの破家《あばらや》における活劇のことを、争闘の間沈黙していて次に逃げ出すという不思議な行動を被害者が取ったあの活劇のことを、コゼットに一口も語らなかったのを。その事件を少しもコゼットに話さなかったというのは、どうしたことだろうか。ごく最近のことだったのに! テナルディエという名前をさえ口外しなかったのは、ことにエポニーヌに会った日でさえ口をつぐんでいたのはどうしたことだったろうか。今となってみれば、彼はその当時の自分の沈黙をほとんど自ら説明に苦しむほどだった。けれどもいろいろ理由も考えられた。自分のそそっかしいこと、コゼットに酔ってしまっていたこと、すべてが恋にのみつくされていたこと、互いに理想の天地に舞い上がっていたこと、またおそらく、その激越な楽しい心の状態にほとんどわからぬくらいの理性が交じっていて、ために漠然《ばくぜん》たる鋭い本能から、あの触れることを恐れていた恐怖すべき事件について、何らの役目もつとめたくなく、ただのがれようとばかり欲していて、その話をしまたは証人となるには同時に告訴者とならざるを得ない地位に自分が立ってるあの事件を、記憶のうちに隠して堙滅《いんめつ》さしてしまおうとしていたこと。それにまた、その数週間は電光のようであって、ただ愛し合うのほか何の余裕もなかった。それからまた、すべてを考量し、すべてをひっくり返してみ、すべてを調べて、ゴルボー屋敷の待ち伏せのことをコゼットに話し、テナルディエという名前を彼女に言ったところで、その結果はどうなったろうか。ジャン・ヴァルジャンが徒刑囚であることを発見したところで、彼マリユスの心が変わり、またコゼットの心が変わったであろうか。それで彼は退いたであろうか。彼女を愛しなくなったであろうか。彼女と結婚しなくなったであろうか。否。何かが今と違うようになったであろうか。否少しも。それでは何も後悔し、何も自責することはなかったではないか。すべていいようになったのだ。恋人と呼ばるる酩酊者《めいていしゃ》にとっては一つの神があるものである。マリユスは盲目でありながら、洞察《どうさつ》の明をそなえていたのと少しも変わらない道をたどったのである。恋は彼の目をおおっていた。しかしそれはどこへ導かんがためにか。楽園へ導かんがためにではなかったか。
 しかし今後は、その楽園は傍《かたわら》に地獄を引き連れてゆくことになったのである。
 あの男に対して、ジャン・ヴァルジャンとなったフォーシュルヴァンに対して、元からマリユスがいだいていたへだたりの感じは、今は嫌悪《けんお》の情を交じうるに至った。
 あえて言うが、その嫌悪の情の中にはまた、あわれみの念があり、ある驚きの念さえも含まれていた。
 その盗人は、その再犯の盗人は、委託金をそのまま返した。しかもいくらであるかと言えば、実に六十万フランである。彼ひとりしかその秘密を知ってる者はなかった。そしてすべてを自分のものとなし得るのだった。しかも彼はそっくり返してしまった。
 その上、彼は自ら進んで身分を打ち明けた。しかも何からも強いられたのではない。彼がいかなる者であるかを人に知られたとすれば、それは彼自身の言葉によってである。その自白はただに屈辱を甘受するばかりではなく、また危険をも甘受するものであった。罪人にとっては、仮面は単なる仮面でなく、また一つの避難所である。彼はその避難所を自ら捨ててしまった。偽名は一身の安全を得さするものである。彼はその偽名を自ら投げ捨ててしまった。徒刑囚たる彼も正しい家庭のうちに長く身を隠し得たのであるが、彼は自らその誘惑に抵抗した。そしてそれらはいかなる動機からかと言えば、ただ良心の懸念からである。彼は偽りだとはどうしても思えない強い調子でそれを自ら説明した。要するにこのジャン・ヴァルジャンなる者がいかなる男であったにせよ、確かに目ざめたる一つの良心であった。そこには神秘な再生が始まっていた。そして外からながめたところによれば、彼は既に長い以前から謹直の僕《しもべ》となっていた。かかる正と善との発動は下賤《げせん》な性格者にはあり得べからざることである。良心の覚醒《かくせい》、それは魂の偉大さを示すものである。
 ジャン・ヴァルジャンは誠実であった。その誠実さは、目に見えるものであり、手に触れられるものであり、否定し得べからざるものであり、そのために彼が自ら受けた悲痛の情によっても明らかに知らるるものであって、真実か否かの穿鑿《せんさく》を不用ならしめ、彼が言ったすべてに権威を与えていた。かくてマリユスは不思議な地位にはさまれた。フォーシュルヴァン氏の口から出てくるものは、すべて不誠実であり、ジャン・ヴァルジャンの口から発するものは、すべて誠実であった。
 マリユスは種々考慮してジャン・ヴァルジャンに対する不思議な貸借表を作ってみ、その貸しと借りとを調べ上げ、一つの平均点に達せんとつとめた。しかしそれらはすべてあたかも暴風雨の中にあるがようだった。マリユスはその男に対して明確な観念を得ようとつとめ、言わばジャン・ヴァルジャンの思想の奥底まで見きわめようとしたが、彼の姿はいかんと
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