、着物を着換えることもできなかったのよ。大変な服装《なり》をしてるでしょう。しわくちゃな襟飾《えりかざ》りをしてるところをごらんなすって、お家の方は何とおっしゃるでしょうね。さあ、あなたも少し話してちょうだい。私にばかり口をきかしていらっしゃるのね。私たちはずっとオンム・アルメ街にいたのよ。あなたの肩の傷はさぞひどかったんでしょうね。手がはいるくらいだったそうですってね。それに鋏《はさみ》で肉を切り取ったんですってね。ほんとに恐ろしい。私は泣いてばかりいたので、目を悪くしてしまったの。どうしてあんなに苦しんだかと思うとおかしいほどよ。お祖父様《じいさま》は御親切そうな方ね。静かにしていらっしゃいな、肱で起き上がってはいけないわ。用心なさらないと、障《さわ》るでしょう。ああ私ほんとに仕合わせだこと! 悪いことももう済んでしまったのね。私どうかしたのかしら。いろんなことをお話したいと思ったのに、すっかり忘れてしまった。やっぱりあなたは私を愛して下さるの? 私たちはオンム・アルメ街に住んでるのよ。庭はないの。私はいつも綿撒糸《めんざんし》ばかりこしらえていたわ。ねえあなた、ごらんなさい、指に胼胝《たこ》ができてしまったわ。あなたが悪いのよ。」マリユスは言った。「おお天使よ!」
天使[#「天使」に傍点]という言葉こそ、使い古すことのできない唯一のものである。他の言葉はみな、恋人らの無茶な使用にはたえ得ない。
それから、あたりに人がいるので、ふたりは口をつぐんでもう一言も言わず、ただやさしく手を握り合ってるばかりだった。
ジルノルマン氏は室《へや》の中にいる人々の方へ向いて声高に言った。
「みんな声を高くして話すんだ。楽屋の方で音を立てるんだ。さあ、子供ふたりで勝手にしゃべくるように、少し騒ぐがいい。」
そして彼はマリユスとコゼットに近寄って、ごく低く言った。
「うちとけて親しむがいい。遠慮するにはおよばない。」
ジルノルマン伯母《おば》は、古ぼけた家庭にかく突然光がさし込んできたのを惘然《ぼうぜん》としてながめていた。惘然さのうちには何らの悪意もなかった。それは二羽の山鳩《やまばと》に対する梟《ふくろう》の憤った妬《ねた》ましい目つきでは少しもなかった。五十七歳の罪のない老女の唖然《あぜん》たる目つきであり、愛の勝利をながめてる空《むな》しい生命だった。
「どうだ、」と父は彼女に言った、「こんなことになるだろうとわしがかねて言ったとおりではないか。」
彼はちょっと黙ったが、言い添えた。
「他人の幸福も見るものだ。」
それから彼はコゼットの方に向いた。
「実にきれいだ、実にきれいだ! グルーズの絵のようだ。おい、いたずらっ児さん、お前はひとりでこれからその娘さんを独占するんだな。わしと張り合わずにすんで仕合わせだ。わしがもし十五年も若けりゃ、剣を取ってもお前と競争するからな。いや、お嬢さん、わたしはお前さんに惚《ほ》れ込んでしまった。しかし怪しむに当たらない。それはお前さんの権利だ。ああこれで、美しいきれいな楽しいかわいい結婚が一つ出来上がる。ここの教区はサン・ドゥニ・デュ・サン・サクルマンだが、サン・ポールで結婚式をあげるように許しを得てやろう。あの教会堂の方が上等だ。ゼジュイット派が建てたものだ。あの方が美しい。ビラーグ枢機官の噴水と向き合っている。ゼジュイット派建築の傑作は、ナムュール市にあって、サン・ルーと言われてる。お前たちが結婚したらそこへ行ってみるがいい。旅するだけの価値はある。お嬢さん、わたしも全然お前さんの味方だ。娘が結婚するのはいいことだ。結婚するようにできている。聖カテリナ([#ここから割り注]訳者注 四世紀初葉の殉教者にして若い娘の守護神[#ここで割り注終わり])のような女で、わしがいつもその髪を解かせたく思うのが、世にはたくさんある。娘のままでいるのも結構なことだが、それはどうも冷たすぎる。聖書にもある、増せよ殖《ふ》えよと。人民を救うにはジャンヌ・ダルクのような女も必要だが、しかし人民を作るにはジゴーニュ小母《おば》さん([#ここから割り注]訳者注 人形芝居の人物にて、裳衣の下からたくさんの子供を出してみせる女[#ここで割り注終わり])のような女が必要だ。だから美人はすべからく結婚すべし。実際独身でいて何のためになるかわしにはさっぱりわからん。なるほど、教会堂に特別の礼拝所を持ち、聖母会の連中の噂《うわさ》ばかりする者も世にはある。しかし結婚して、夫はりっぱな好男子だし、一年たてば金髪の大きな赤ん坊ができ、元気に乳を吸い、腿《もも》は肥《ふと》ってよくくくれ、曙《あけぼの》のように笑いながら、薔薇色《ばらいろ》の小さな手でいっぱいに乳房を握りしめるとすれば、晩の祈祷《きとう》に蝋燭《ろうそく》を持って象牙の塔[#「象牙の塔」に傍点]([#ここから割り注]聖母マリア[#ここで割り注終わり])を歌うよりも、よほど勝《まさ》っている。」
祖父は九十歳の踵《かかと》でくるりと回って、発条《ばね》がとけるような具合に言い出した。
[#ここから2字下げ]
「かくてアルシペよ、夢想に限界《かぎり》を定めて、
やがて汝《な》が婚姻するは、まことなるか。
[#ここで字下げ終わり]
時にね。」
「何です、お父さん。」
「お前には親しい友だちがあったか。」
「ええ、クールフェーラックという者です。」
「今どうしてる?」
「死んでいます。」
「それでいい。」
彼はふたりのそばに腰を掛け、コゼットにも腰掛けさし、彼らの四つの手を自分の年老いた皺《しわ》のある手に取った。
「実にりっぱな娘さんだ。このコゼットはまったく傑作だ。小娘でまた貴婦人だ。男爵夫人には惜しい。生まれながらの侯爵夫人だ。睫毛《まつげ》もりっぱだ。いいかね、お前たちは本当の道を踏んでるということをよく頭に入れとかなくてはいかん。互いに愛し合うんだ。愛してばかになるんだ。愛というものは、人間の愚蒙《ぐもう》で神の知恵だ。互いに慕い合うがいい。ただ、」と彼は急に沈み込んで言い添えた、「一つ悲しいことがある。それがわしの気がかりだ。わしの財産の半分以上は終身年金になっている。わしが生きてる間はいいが、わしが死んだら、もう二十年もしたら、かわいそうだが、お前たちは一文なしになる。男爵夫人たるこのまっ白な美しい手も、食うために働かなくてはならないことになるだろう。」
その時、荘重な落ち着いた声が聞こえた。
「ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢は、六十万フランの金を持っています。」
その声はジャン・ヴァルジャンから出たのだった。
彼はその時まで一言も口をきかずにいた。だれも彼がそこにいることさえ知らないがようだった。そして彼は幸福な人々のうしろにじっと立っていた。
「ウューフラジー嬢というのは何のことだろう?」と祖父はびっくりして尋ねた。
「私です。」とコゼットは答えた。
「六十万フラン!」とジルノルマン氏は言った。
「たぶん一万四、五千フランはそれに足りないかも知れませんが。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
そして彼はジルノルマン嬢が書物だと思っていた包みをテーブルの上に置いた。
ジャン・ヴァルジャンは自ら包みを開いた。それは一束の紙幣だった。人々はそれをひろげて数えてみた。千フランのが五百枚と五百フランのが百六十八枚はいっていて、全部で五十八万四千フランあった。
「これは結構な書物だ。」とジルノルマン氏は言った。
「五十八万四千フラン!」と伯母《おば》がつぶやいた。
「これで万事うまくいく、そうじゃないか。」と祖父はジルノルマン嬢に言った。「マリユスの奴、分限者の娘を狩り出したんだ。こうなったらお前も若い者の恋にかれこれ言えやしないだろう。学生は六十万フランの女学生を見つけ出す。美少年はロスチャイルド以上の働きをするというものだ。」
「五十八万四千フラン!」とジルノルマン嬢は半ば口の中で繰り返していた。「五十八万四千フラン、まあ六十万フランだ。」
マリユスとコゼットとは、その間ただ互いに顔を見合っていた。ふたりはそんなことにほとんど注意もしなかった。
五 金は公証人よりもむしろ森に託すべし
読者は長い説明を待つまでもなく既に了解したであろう。ジャン・ヴァルジャンはシャンマティユー事件の後、最初の数日間の逃走によって、パリーにき、モントルイュ・スュール・メールでマドレーヌ氏の名前で儲《もう》けていた金額を、ちょうどよくラフィット銀行から引き出すことができた。そして再び捕えられることを気使って――果たして間もなく捕えられたが――モンフェルメイュの森の中のブラリュの地所と言われてる所に、その金を埋めて隠しておいた。金額は六十三万フランで、全部銀行紙幣だったので、わずかな嵩《かさ》で一つの小箱に納めることができた。ただその小箱に湿気を防ぐため、更に栗の木屑《きくず》をいっぱいつめた樫《かし》の箱に入れておいた。同じ箱の中に彼は、も一つの宝である司教の燭台《しょくだい》をもしまった。モントルイュ・スュール・メールから逃走する時彼がその二つの燭台を持っていったことを、読者は記憶しているだろう。ある夕方ブーラトリュエルが最初に見つけた男は、ジャン・ヴァルジャンにほかならなかった。その後ジャン・ヴァルジャンは、金がいるたびごとにそれを取りにブラリュの空地にやってきた。前に言ったとおり彼が時々家をあけたのは、そのためだった。彼は人の気づかない茂みの中に一本の鶴嘴《つるはし》を隠しておいた。それから彼は、マリユスが回復期にはいったのを見た時、その金の役立つ時機が近づいたのを感じて、それを取りに出かけていった。ブーラトリュエルが森の中でこんどは夕方でなく早朝に見かけた男は、やはりジャン・ヴァルジャンだった。ブーラトリュエルはその鶴嘴だけを受け継いだ。
実際に残ってた金額は五十八万四千五百フランだった。ジャン・ヴァルジャンはそのうち五百フランだけを自分のために引き去っておいた。「あとはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。
その金額とラフィット銀行から引き出した六十三万フランとの間の差額は、一八二三年から一八三三年に至る十年間の費用を示すものである。そのうち修道院にいた五年間は、ただ五千フランかかったのみだった。
ジャン・ヴァルジャンは二つの銀の燭台を暖炉棚《だんろだな》の上に置いた。そのりっぱなのを見てトゥーサンはひどく感心していた。
それからまたジャン・ヴァルジャンは、ジャヴェルから免れたことを知っていた。その事実が自分の前で話されるのを聞いて、彼は機関新聞で更に確かめてみた。その記事によると、ジャヴェルというひとりの警視が、ポン・トー・シャンジュとポン・ヌーフの二つの橋の間の洗濯舟《せんたくぶね》の下に溺死《できし》してるのが発見された、しかるに彼は元来上官からもごく重んぜられ何ら非難すべき点もない男であって、その際残していった手記によって考えれば、精神に異状を呈して自殺を行なったものらしい、というのだった。ジャン・ヴァルジャンは考えた。「実際彼は、私を捕えながら放免したところをみると、どうしても既にあの時から気が狂っていたに違いない。」
六 コゼットを幸福ならしむるふたりの老人
結婚の準備は悉《ことごと》く整えられた。医者に相談すると、二月には行なってもいいという明言が得られた。今は十二月だった。かくて全き幸福の楽しい数週間が過ぎていった。
祖父も同じように幸福だった。彼はよく十四、五分間もコゼットに見惚《みと》れてることがあった。
「実にきれいな娘だ!」と彼は叫んだ。「そして至ってやさしく親切そうな様子だ。いとしき者よわが心よ、などと言ってもまだ足りない。これまで見たこともないほど美しい娘だ。やがては菫《すみれ》のように香んばしい婦徳も出て来るだろう。まったく優美の至りだ。こんな婦人といっしょにおれば、だれでもりっぱな生活をしないわけにはゆかない。マリユス、お前は男爵で金持ちだ。もう弁護士なんかには
前へ
次へ
全62ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング