、防寨からではないか、と問われる。そして手を見られる。火薬のにおいがする。そのまま銃殺だ。」
アンジョーラはそれに答えないで、コンブフェールの肩に触れ、ふたりで居酒屋の下の広間にはいって行った。
彼らはまたすぐそこから出てきた。アンジョーラは両手にいっぱい、取って置いた四着の軍服を持っていた。後に続いたコンブフェールは、皮帯と軍帽とを持っていた。
「この服をつけてゆけば、」とアンジョーラは言った、「兵士の間に交じって逃げることができる。りっぱに四人分ある。」
そして彼は、舗石《しきいし》をめくられた地面の上に四つの軍服を投げ出した。
堅忍なる聴衆のうちには身を動かす者もなかった。コンブフェールは語り出した。
「諸君、」と彼は言った。「憐憫《れんびん》の情を少し持たなければいけない。ここで何が問題であるか知っているか。問題は婦人の上にあるんだ。いいか。妻を持ってる者はないか。子供を持ってる者はないか。足で揺籃《ゆりかご》を動かしたくさんの子供に取り囲まれてる母親を持ってる者はないか。君らのうちで、かつて育ての親の乳房《ちぶさ》を見なかった者があるならば、手をあげてみたまえ。諸君はここで死にたいと言う。諸君に今語っている僕もここで死にたい。しかし僕は、腕をねじ合わして嘆く婦人の幻を自分の周囲に見たくはない。欲するならば死にたまえ。しかし他の人をも死なしてはいけない。ここでやがて行なわれんとする自滅は荘厳なものである。しかしその自滅は範囲をせばめて、決して他人におよぼしてはいけない。もしそれを近親の者にまでおよぼす時には、自滅ではなくて殺害となる。金髪の子供らのことを考えてみ、白髪の老人らのことを考えてみるがいい。聞きたまえ、今アンジョーラが僕に話したことを。シーニュ街の角《かど》に、光のさす窓が一つ見えていた、六階の粗末な窓に蝋燭《ろうそく》の光がさしていた、その窓ガラスには、一晩中眠りもしないで待ってるらしい年取った女の頭が、ゆらゆらと映っていた。たぶん君らのうちのだれかの母親だろう。でそういう者は、立ち去るがいい。急いで行って、母親に言うがいい、お母《かあ》さんただ今帰りましたと。安心したまえ、ここはあとに残った者だけで充分だ。自分の腕で一家をささえてる者には、身を犠牲にする権利はない。それは家庭を破滅させるというものだ。また娘を持ってる者、妹を持ってる者、そういう者はよく考えて見たまえ。自分の身を犠牲にする、自分は死ぬ、それはかまわぬ、しかし明日は? パンに窮する若い娘、それは恐ろしいことではないか。男は食を乞《こ》うが、女は身を売る。あああのうるわしいやさしい可憐《かれん》な娘ら、花の帽子をかぶり、歌いさえずり、家の中に清らかな気を満たし生きたる香のようであり、地上における処女の純潔さで天における天使の存在を証する者、ジャンヌやリーズやミミ、諸君の恵みであり誇りである愛すべき正直なる者、彼女らが飢えんとするのである。ああ何と言ったらいいか。世には人の肉体の市場がある。彼女らがそこにはいるのを防ぐのは、彼女らのまわりにうち震える諸君の影の手がよくなし得るところではない。街路に、通行人でいっぱいになってる舗石《しきいし》の上に、商店の前に、首筋をあらわにし泥にまみれてさまよう女のことを考えて見たまえ。その女どももまたもとは純潔だったのだ。妹を持ってる者は妹のことを考えてみるがいい。困窮、淫売《いんばい》、官憲、サン・ラザール拘禁所、そういう所に、あのうるわしい、たおやかな娘らは、あの五月のライラックの花よりもなおさわやかな貞節と温順と美とのもろい宝は、ついに落ちてゆくのだ。ああ諸君は身を犠牲にする、諸君はもはや生きていない。それは結構だ。諸君は民衆を王権から免れさせようと欲したのだ。しかもまた諸君は自分の娘を警察の手に渡すのである。諸君、よく注意したまえ、あわれみの心を持ちたまえ。婦人らのことを、不幸なる婦人らのことを、われわれは普通あまり念頭に置いていない。婦人らが男のごとき教育を受けていないことに自ら得意となり、彼女らの読書を妨げ、彼女らの思索を妨げ、彼女らが政治に干与するのを妨げている。そこで今晩彼女らが、死体公示所へ行って諸君の死屍《しし》を見分けんとするのを、初めからさせないようにしてはどうか。家族のある者はわれわれの言に従い、われわれと握手して立ち去り、われわれをここに残して自由に働かしてくれてはどうか。むろん立ち去るには勇気が必要である。それは困難なことだ。しかし困難が大なるほど、価値はますます大である。諸君は言う、俺《おれ》は銃を持っている、俺は防寨《ぼうさい》にきている、どうでも俺は去らないと。どうでもと、そう口で言うのはたやすい。しかし諸君、明日というものがある。その明日には、諸君はもう生きていないだろうが、諸君の家族はまだ残っているだろう。そしていかに多くの苦しみがやってくるか! ここにひとりの健康なかわいい子供がいるとする。林檎《りんご》のような頬《ほお》をし、片言《かたこと》交じりにしゃべりさえずり笑い、脣《くち》づけをすればそのいきいきした肉体が感ぜらるる。ところが彼が見捨てられた時、どうなりゆくか考えてみたまえ。僕はそういう子供をひとり見たことがある。まだ小さなこれくらいな児だった。父親が死んだので、貧しい人たちが慈悲心から拾い上げた。しかし彼ら自身もパンに窮していた。子供はいつも腹をすかしていた。ちょうど冬だった。子供は泣きもしなかった。彼はストーヴに寄ってゆくが、そこには火もなく、煙筒には黄色い土が塗りつけてあるばかりだ。子供はその土を小さな指先で少しはがして、それを食っていた。呼吸は荒く、顔はまっさおで、足には力がなく、腹はふくれていた。一言も口をきかなかった。話しかけても返事をしなかった。そしてついに死んだ。ネッケルの救済院に連れていって死なしたのだ。そこで僕は子供を見た。僕は当時その救済院に寄宿していたんだ。今諸君のうちに、父親たる者があるならば、頑丈《がんじょう》な手に子供の小さな手を引いて日曜日の散歩を楽しみとしてる父親があるならば、右の子供はすなわち自分の子供にほかならないと想像してもらいたい。僕はそのあわれな子供のことをよく覚えている、今も目に見るような気がする。裸のまま解剖台の上に横たわっていた時、その肋骨《ろっこつ》[#ルビの「ろっこつ」は底本では「ろうこつ」]は墓場の草の下の土饅頭《どまんじゅう》のように皮膚の下に飛び出していた。胃袋の中には泥《どろ》のようなものが見いだされた。歯の間には灰がついていた。さあ胸のうちに目を向けて、心の声に耳を傾けようではないか。統計の示すところによると、親のない子供の死亡率は五十五パーセントにおよんでいる。僕は繰り返して言う、問題は妻の上に、母親の上に、若い娘の上に、頑是《がんぜ》ない子供の上にある。諸君自身のことを言うのではない。諸君自身のことはよくわかっている。諸君が皆勇敢であることはよくわかっている。諸君が皆心のうちに、大義のために身を犠牲にするの喜びと光栄とを持ってることは、よくわかっている。諸君は有益なまたみごとな死を遂げんがために選まれたる者であることを感じており、各人皆勝利の分前を欲しておることは、よくわかっている。まさにそのとおりである。しかし諸君はこの世においてひとりではない。考えてやらなければならない他の人たちがいる。利己主義者であってはならないのだ。」
人々は皆|沈鬱《ちんうつ》な様子をして頭をたれた。
最も荘厳なる瞬間における人の心の不思議な矛盾さよ! かく語ったコンブフェール自身孤児ではなかった。彼は他人の母親のことを思い出していたが、自分の母親のことは忘れていた。彼はおのれを死地に置かんとしていた。彼こそ「利己主義者」であった。
マリユスは飲食もせず、熱に浮かされたようになり、あらゆる希望の外にいで、悲痛の洲《す》に乗り上げ、最も悲惨な難破者となり、激越な情緒に浸され、もはや最後が近づいたことを感じて、人が自ら甘受する最期の時間の前に常に来る幻覚的な惘然《ぼうぜん》さのうちに、しだいに深く沈み込んでいた。
生理学者が今彼の様子を観察したならば、科学上よく知られ類別されてる熱性混迷のしだいに高まる徴候を見て取り得たであろう。この熱性混迷が苦悩に対する関係は、あたかも肉体的歓楽が快感に対するようなものである。絶望にもまたその恍惚《こうこつ》たる状態がある。マリユスはそういう状態に達していた。彼はすべてのことを、外部から見るようにながめていた。前に言ったとおり、眼前に起こった事物も、彼には遠方のもののように思えた。全体はよく見て取れたが、些細《ささい》な点はわからなかった。行ききする人々は炎の中を横ぎってるがようであり、人の話し声は深淵《しんえん》の底から響いてくるがようだった。
しかしながらただ今のことは彼の心を動かした。その情景のうちには鋭い一点があって、それに彼は胸を貫かれ呼びさまされた。彼はもはや死ぬという一つの観念しか持っていず、それから気を散らされることを欲していなかった。しかし今や彼はその陰惨な夢遊のうちにあって、自ら身を滅ぼしながらも他人を助けることは禁じられていないと考えた。
彼は声を上げた。
「アンジョーラとコンブフェールとの意見は正当だ。」と彼は言った。「無益な犠牲を払うの要はない。僕はふたりの意見に賛成する。そして早くしなければいけない。コンブフェールは確かな事柄を言ったではないか。諸君のうちには、家族のある者がいるだろう、母や妹や妻や子供を持ってる者がいるだろう。そういう者はこの列から出たまえ。」
だれも動く者はなかった。
「結婚した者および一家の支柱たる者は、列外に出たまえ!」とマリユスは繰り返した。
彼の権威は偉大なものだった。アンジョーラはもとより防寨《ぼうさい》の首領であったが、マリユスは防寨の救済主であった。
「僕はそれを命ずる!」とアンジョーラは叫んだ。
「僕は諸君に願う!」とマリユスは言った。
その時、コンブフェールの言葉に動かされ、アンジョーラの命令に揺られ、マリユスの懇願に感動されて、勇士らは、互いに指摘し始めた。「もっともだ。君は一家の主人じゃねえか。出るがいい。」とひとりの若者は壮年の男に言った。男は答えた。「むしろお前の方だ。お前はふたりの妹を養ってゆかなくちゃならねえんだろう。」そして異様な争いが起こった。互いに墳墓の口から出されまいとする争いだった。
「早くしなけりゃいけない。」とコンブフェールは言った。「もう十五、六分もすれば間《ま》に合わなくなるんだ。」
「諸君、」とアンジョーラは言った、「ここは共和である、万人が投票権を持っている。諸君は自ら去るべき者を選むがいい。」
彼らはその言葉に従った。数分の後、五人の男が全員一致をもって指名され、列から前に進み出た。
「五人いる!」とマリユスは叫んだ。
軍服は四着しかなかった。
「ではひとり残らなくちゃならねえ。」と五人の者は言った。
そしてまた互いに居残ろうとする争いが、他の者に立ち去るべき理由を多く見いださんとする争いが始まった。寛仁な争いだった。
「お前には、お前を大事にしてる女房がいる。――お前には年取った母親《おふくろ》がいる。――お前には親父《おやじ》も母親もいねえ、お前の小さな三人の弟はどうなるんだ。――お前は五人の子供の親だ。――お前は生きるのが本当だ、十七じゃねえか、死ぬには早え。」
それら革命の偉大な防寨《ぼうさい》は、勇壮の集中する所であった。異常なこともそこでは当然だった。勇士らはそれを互いに驚きはしなかった。
「早くしたまえ。」とクールフェラックは繰り返した。
群れの中からマリユスに叫ぶ声がした。
「居残る者をあなたが指定して下さい。」
「そうだ、」と五人の者は言った、「選んで下さい。私どもはあなたの命令に従う。」
マリユスはもはや自分には何らの感情も残っていないと思っていた。けれども今、死ぬべき者をひとり選ぶという考えに、全身の血は心臓
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