していた。
熱誠のあまり時としては鏖殺《おうさつ》を事とするに至った。国民兵の某隊は、その私権をもって軍法会議を作り、わずか五分間のうちにひとりの捕虜の暴徒を裁断して死刑に処した。ジャン・プルーヴェールが殺されたのも、かかる即席裁判によってだった。実に狂猛なるリンチ法([#ここから割り注]私刑の法[#ここで割り注終わり])であって、それについてはいずれの党派も他を非難する権利を有しない。なぜならそれは、ヨーロッパの王政によって行なわれたとともにまたアメリカの共和政によっても行なわれたからである。そしてこのリンチ法には、また多くの誤解が含まっていた。ある日の暴動のおり、ポール・エーメ・ガルニエというひとりの若い詩人は、ロアイヤル広場で兵士に追跡されてまさに銃剣で突かれんとしたが、六番地の門の下に逃げ込んでようやく助かった。「サン[#「サン」に傍点]・シモン派のひとりだ[#「シモン派のひとりだ」に傍点]」と兵士らは叫んで、彼を殺そうとしたのである。彼はサン・シモン公の追想記を一冊小わきにかかえていた。ひとりの国民兵がその書物の上にサン[#「サン」に傍点]・シモン[#「シモン」に傍点]とい
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