ってゆくと彼は一種の戦慄《せんりつ》を感じた。肱掛《ひじか》け椅子《いす》は二つともなくなっていた。普通の椅子さえ一つもなかった。
「まあ、椅子がない!」とコゼットははいってきて叫んだ。「椅子はどこにあるんでしょう?」
「もうありません。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
「あんまりですわ!」
 ジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
「持ってゆくように私がバスクに言いました。」
「なぜです。」
「今日はちょっとの間しかいないつもりですから。」
「長くいないからと言って、立ったままでいる理由にはなりません。」
「何でも客間に肱掛け椅子がいるとかバスクが言っていたようです。」
「なぜでしょう。」
「たしか今晩お客があるのでしょう。」
「いえだれもきはしません。」
 ジャン・ヴァルジャンはそれ以上何とも言うことができなかった。
 コゼットは肩をそびやかした。
「椅子を持ってゆかせるなんて! こないだは火を消さしたりして、ほんとにあなたは変な方ですわ。」
「さようなら。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
 彼は「さようなら、コゼット」とは言わなかった。しかし「さようなら、奥さん」と言う力もな
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