しめ、まっかになり、喉《のど》をつまらし、口に泡《あわ》を立て、目をむき出して、ちょうど次の室《へや》で靴《くつ》をみがいていた正直なバスクとばったり顔を合わした。彼はバスクの襟《えり》をとらえ、まっ正面から勢い込めてどなりつけた。「畜生、その悪漢どもが殺害したんだ!」
「だれをでございますか。」
「アンドレ・シェニエをだ!」
「さようでございます。」とバスクは驚き恐れて言った。

     四 フォーシュルヴァン氏の小わきの包み

 コゼットとマリユスとは再び会った。
 その面会はどんなものであったか、それを語るのをわれわれはやめよう。世には描写すべからざるものがある。たとえば太陽もその一つである。
 コゼットがはいってきた時には、バスクやニコレットをも加えて一家の者が皆マリユスの室《へや》に集まっていた。
 彼女は閾《しきい》の上に現われた。その姿はあたかも円光に包まれてるかと思われた。
 ちょうどその時祖父は鼻をかもうとしていた。彼はそれを急にやめ、ハンカチで鼻を押さえたまま、その上からコゼットをながめた。
「みごとな娘だ!」と彼は叫んだ。
 それから彼は大きな音を立てて鼻をかんだ。
 コゼットは、酔い、喜び、おびえ、天に上ったような心地になっていた。彼女はおよそ幸福が与え得るだけの恐怖を感じていた。彼女は口ごもり、まっさおになり、またまっかになり、マリユスの腕に身を投じたく思いながらあえてなし得なかった。大勢の人前で愛するのをはずかしがったのである。人は幸福なる恋人らに対して無慈悲である。彼らが最もふたりきりでいたく思う時にはそこに控えている。しかしふたりはまったく他人を必要としないのである。
 コゼットと共に、白髪の老人がひとりそのあとからはいってきた。彼は荘重な顔つきをしていたが、それでもほほえんでいた。しかしそれはぼんやりした痛ましい微笑だった。この老人は「フォーシュルヴァン氏」で、すなわちジャン・ヴァルジャンであった。
 彼は新しい黒服をまとい白い襟飾《えりかざ》りをつけて、門番が言ったとおりごくりっぱな服装[#「ごくりっぱな服装」に傍点]をしていた。
 公証人ででもありそうなそのきちょうめんな市民が、あの六月七日の夜、気絶したマリユスを腕にかかえ、ぼろをまとい、不潔で醜く荒々しく、血と泥《どろ》とにまみれた顔をして、門の中にはいってきた恐ろしい死体運搬人であろうとは、門番は夢にも思いつかなかった。しかしどことなく見覚えがあるように思った。フォーシュルヴァン氏がコゼットと共にやってきた時、門番はそっと女房にささやかざるを得なかった。「何だかあの人は前に見たことがあるようにいつも思われてならないがね、どうも変だ。」
 フォーシュルヴァン氏はマリユスの室《へや》の中で、わきによけるように扉《とびら》のそばに立っていた。彼は小わきに、紙にくるんだ八折本らしい包みを抱えていた。包み紙は緑がかった色で、黴《かび》がはえてるようだった。
「あの人はいつもああして書物を抱えていなさるのかしら。」と書物ぎらいなジルノルマン嬢は、低い声でニコレットに尋ねた。
「そう、あの人は学者だ。」とその声を耳にしたジルノルマン氏は同じ小声で答えた。「だがそんなことはかまわんじゃないか。わしが知ってるブーラールという人もやはり、いつも書物を持って歩いていて、ちょうどあのように古本を胸に抱いていた。」
 そしてお辞儀をしながら、彼は高い声で言った。
「トランシュルヴァンさん……。」
 ジルノルマン老人は他意あってそんなふうに呼んだのではなかった。人の名前にとんちゃくしないのは、彼にとっては一つの貴族的な癖だった。
「トランシュルヴァンさん、わたしは、孫のマリユス・ポンメルシー男爵のために御令嬢に結婚を申し込みますのを、光栄と存じます。」
「トランシュルヴァン氏」は頭を下げた。
「これできまった。」と祖父は言った。
 そしてマリユスとコゼットとの方を向き、祝福するように両腕をひろげて叫んだ。
「互いに愛し合うことを許す。」
 彼らは二度とその言葉を繰り返させなかった。言われるが早いかすぐに楽しく話し出した。マリユスは長椅子《ながいす》の上に肱《ひじ》をついて身を起こし、コゼットはそのそばに立って、互いに声低く語り合った。コゼットはささやいた。「ああうれしいこと、またお目にかかれたのね。ねえ、あなた、あなた! 戦争においでなすったのね。なぜなの。恐ろしいことだわ。四月《よつき》の間私は生きてる気はしなかったわ。戦争に行くなんて、ほんに意地悪ね。私あなたに何をして? でも許して上げてよ。これからもうそんなことをしてはいけないわ。さっき、私たちに来るようにって使いがきた時、私はまたもう死ぬのかと思ったの。でもうれしいことだったのね。私は悲しくて悲しくて
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