でわしが脇肉はどうだと言い出したら、実は結婚したいのですが、と答えたんだな。それは話をそらすというものだ。お前は少し言い争うつもりでいたんだろう。わしがこれでも古狸《ふるだぬき》であることを、お前は知らなかったんだ。どうだね。腹が立つかね。祖父《おじい》さんを少しばかにしてやろうなどと思っても、そうはいかないさ。議論なんかしかけようたってむだなことさ。弁護士さん、癪《しゃく》にさわるかね。まあ怒るのは損だよ。お前のすきなようにしてやれば、文句もなかろうというものだ。ばかだね。まあ聞きなさい。わしもなかなかずるくてな、いろいろ調べてみたんだ。なるほどきれいで悧巧《りこう》な娘だ。槍騎兵《そうきへい》の話も嘘《うそ》だった。綿撒糸《めんざんし》を山のように作ってくれたよ。実にりっぱな娘だ。お前に逆上《のぼ》せきってる。もしお前が死んだら、三人になるところだった、娘の葬式がわしの葬式に続いて出る所だった。わしもな、お前がよくなりかけてからは、娘を枕頭《まくらもと》に連れてきてやろうとは思ったが、美男子が負傷して寝てる所へ、夢中になってる若い娘をすぐに連れてくるのも、小説ならともかく、実際はちと困るからな。伯母《おば》さんもどう言うかわからないしね。お前は素裸になってる時の方が多いくらいだった。いつもそばについてたニコレットに聞いてみなさい、婦人を傍に置けたかどうか。それからまた医者もどう言うかわからない。きれいな娘は決して人の熱を下げてくれるものではないからな。だが、もうそれでいい、こんな話はやめよう。すっかりきまってる。でき上がってる。まとまってることなんだ。あの娘をもらうがいい。わしの意地悪さと言えばまあそんなものだ。ねえ、わしはな、お前からきらわれてるのを見て取って、こう考えた。『こいつが俺《おれ》を愛するようになるには、どうしたらいいかな。』そしてまたわしは考えた。『なるほど、コゼットが俺の手の中にある。コゼットを一つくれてやろう。そうしたら少しは俺を愛してくれるに違いない。あるいはまた、愛しない理由を言うに違いない。』ところがお前は、この爺《じい》さんがやかましく言い、大きな声を立て、反対をとなえ、その夜明けのような娘の上に杖《つえ》を振り上げることと、思っていたんだろう。だがそんなことをわしがするものか。コゼットも結構、恋も結構、わしはもうそれで十分だ。だからどうか結婚してくれ。かわいいお前のことだもの、幸福になってくれ。」
 そう言って、老人は涙にむせんだ。
 彼はマリユスの頭を取り、それを年老いた胸に両腕で抱きしめた。そしてふたりとも泣き出した。泣くのは最上の幸福の一つの形である。
「お父さん!」とマリユスが叫んだ。
「ああ、ではわしを愛してくれるか?」と老人は言った。
 それは名状し難い瞬間だった。ふたりは息をつまらして、口をきくこともできなかった。やがて老人はつぶやいた。
「さあ、これで口もあけた。わしをお父さんと言ってくれた。」
 マリユスは祖父の腕から頭をはずして、静かに言った。
「ですがお父さん、もう私は丈夫になっていますから、彼女に会ってもよさそうに思います。」
「それも承知してる。明日《あす》会わしてやろう。」
「お父さん!」
「何かね。」
「なぜ今日はいけないんです。」
「では今日、そう今日にしよう。お前は三度お父さんと言ったね、それに免じて許してやろう。わしが引き受ける。お前のそばへ連れてこさせよう。こうなるだろうと思っていた。ちゃんと詩にもなってる。アンドレ・シェニエの病める若者[#「病める若者」に傍点]という悲歌の末句だ。九十三年の悪……大人物どもから斬首《ざんしゅ》されたアンドレ・シェニエのね。」
 ジルノルマン氏はマリユスがちょっと眉《まゆ》をしかめたように思った。しかしあえて言っておくが、マリユスはまったく歓喜のうちに包まれ、一七九三年のことなんかよりもコゼットのことを多く考えていて、老人の言葉に耳を傾けていなかった。けれども祖父は、折り悪しくアンドレ・シェニエを口にして自ら震え上がり、急いで弁解を始めた。
「斬首《ざんしゅ》というのは適当でない。事実を言えば、革命の偉人たちは、確かに悪人ではなく英雄であったが、アンドレ・シェニエを少し邪魔にして、彼を断頭……すなわち、その英傑たちは、共和熱月七日([#ここから割り注]一七九四年七月二十五日[#ここで割り注終わり])、公衆の安寧のために、アンドレ・シェニエに願って……。」
 ジルノルマン氏は自分の言おうとする言葉に喉《のど》をしめつけられて、あとを続けることができなかった。言い終えることも言い直すこともできず、娘がマリユスのうしろで枕を直してる間に、激情に心転倒して、老年の足が許す限りの早さで、寝室の外に飛び出し、うしろに扉《とびら》を押し
前へ 次へ
全155ページ中89ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング