いた。ある時ファルネーゼのヘラクレス像の前で、大勢の者が彼を取り巻いて嘆賞したことを、わしは覚えている。それほどこの子は美しかった。まるで絵に書いたようだった。わしは時々大きい声をすることもあり、杖《つえ》を振り上げておどかすこともあったが、それもただ戯れであることを彼はよく知っていた。朝わしの室《へや》へはいってくると小言《こごと》を言ったが、それでもわしにとっては日の光がさしてくるようなものだった。そういう子供に対しては、だれでも無力なものだ。子供はわれわれを奪い、われわれをとらえて、決して放さないものだ。実際この子のようにかわいいものは世になかった。そして今、この子を殺してしまったラファイエット派やバンジャマン・コンスタン派やティルキュイル・ド・コルセル派などは、何という奴《やつ》どもだ! このままで済ますことはできない。」
 やはり身動きもせずに色を失ってるマリユスに彼は近寄って、また両腕をねじ合わした。医者もマリユスのそばに戻っていた。老人の白い脣《くちびる》は、ほとんど機械的に動いて、臨終の息のように、ようやく聞き取れるかすかな言葉をもらした。「ああ、薄情者、革命党、無法者、虐殺人!」それは死骸《しがい》に対して瀕死《ひんし》の者がつぶやく非難の声であった。
 内心の爆発は常に外に現われなければやまないものである。引き続いて言葉は少しずつ出てきたが、しかし祖父にはもうそれを口にするだけの力がないように見えた。彼の声は他界から来るかと思われるほど遠くかすかになっていた。
「それももうわしにとっては同じことだ。わしも間もなく死ぬんだ。ああパリーのうちにも、このあわれな子を喜ばせるだけの女はいなかったのか! なぜこの世をおもしろく楽しもうとはせず、戦いに行って畜生のように屠《ほふ》られてしまったのか。それもだれのため何のためかと言えば、共和のためではないか! 若い者はショーミエールにでも行って踊ってればいいのだ。二十歳といえばめったにない大事な年齢だ。ろくでもないばかな共和めが! 世の母親がいくらきれいな子供をこしらえても、皆|攫《さら》ってゆきやがる。ああこの子は死んでしまった。そのためにお前のとわしのと二つの葬式がこの家から出るだろう。お前がそんなことをしたのも、ラマルク将軍の目を喜ばせるためなのか。だがそのラマルク将軍がいったいお前に何をしてくれたか。猪武者《いのししむしゃ》めが、向こう見ずめが! 死んだ者のために死ぬなんてなんのことだ。これで気が狂わずにいられるか。考えてみるがいい、わずか二十歳で! そしてあとに残る者のことはふり向いて見ようともしない。このようにして世にあわれな人のいい老人は、ただひとりで死ななければならないのか。おおただひとりでくたばってしまうのか! だがとにかくそれで結構だ。わしの望みどおりだ。わしもこれでさっぱり往生するだろう。わしはあまり長生きしてる。もう百歳だ、万々歳だ。長い前から死んでよかったのだ。この打撃で済んだ。もう終わりだ。かえって仕合わせというものだ! この子にアンモニアを嗅《か》がせたりやたらに薬を飲ませたりしても、もう何の役に立とう。ドクトル、もう君がどんなに骨折ってもむだですぞ。ねえ、彼は死んでいる、まったく死んでいる。わしはよくそれを知っている。わし自身も死んでるのだから。彼は世の中を半分しか知らなかった。ああ今の時代は、汚れてる、汚れてる、汚れてるんだ。時代自身も、思潮も、学説も、指導者も、権威者も、学者も、三文文士も、へぼ思想家も、それから六十年来テュイルリー宮殿の烏《からす》の群れを脅かした多くの革命も、皆汚れてるんだ。そしてお前はこんなふうに身を殺しながら、わしに対して慈悲の心を持たなかったのだから、わしもお前の死を別に悲しくは思わない。わかったか、人殺しめ!」
 ちょうどその時マリユスは、静かに眼瞼《まぶた》を開いた。そしてその目は、まだ昏睡的《こんすいてき》な驚きにおおわれながら、ジルノルマン氏の上に据えられた。
「マリユス!」と老人は叫んだ、「マリユス、わしの小さなマリユス、わしの子、わしのかわいい子! 目を開いたか、わしを見てるのか、生きてくれたのか! ありがたい!」
 そして彼は気を失って倒れた。
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   第四編 ジャヴェルの変調

 ジャヴェルはゆるやかな足取りでオンム・アルメ街を去っていった。
 生涯に始めて頭をたれ、生涯に始めて両手をうしろにまわして、彼は歩いていた。
 その日までジャヴェルは、ナポレオンの二つの態度のうち決意を示す方の態度をしか、すなわち胸に両腕を組む態度をしか取ったことはなかった。遅疑を示す方の態度は、すなわち両手をうしろにまわす方の態度は、彼の知らないところだった。しかるに今や一変化が起こっていた。彼の全身
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