して置かれた。
 マリユスは建て物の他の部屋《へや》の者がだれも気づかないうちに二階に運ばれ、ジルノルマン氏の次の室《へや》の古い安楽椅子《あんらくいす》に寝かされた。そしてバスクが医者を迎えに行き、ニコレットが箪笥《たんす》を開いてる間に、ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルから肩をとらえられてるのを感じた。
 彼はその意味を了解し、ジャヴェルの足音をうしろにしたがえながら階段をまたおりていった。
 門番は恐ろしい夢の中にいるような心地で、彼らがはいってきたとおりにまた出て行くのをながめた。
 彼らは再び馬車に乗った。御者も御者台に上った。
「ジャヴェル警視、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「も一つ許してもらいたい。」
「何だ?」とジャヴェルは荒々しく尋ねた。
「ちょっと自宅に戻るのを許してほしい。それからあとは君の存分にしてもらおう。」
 ジャヴェルは上衣のえりに頤《あご》を埋め、しばらく黙り込んでいたが、それから前の小窓を開いた。
「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街七番地へやれ。」

     十一 絶対者の動揺

 彼らは先方に着くまで一言も口をきかなかった。
 ジャン・ヴァルジャンが望んでいることは何であったか? 既にはじめたところをなし終えること、すなわち、コゼットに事情を知らせ、彼女にマリユスの居所を告げ、他の何か有益な注意を与え、またでき得るならばある最後の処置を取ることだった。彼自身のことは、彼一身に関することは、万事終わっていた。彼はジャヴェルに捕えられ、少しも抵抗しなかった。もし他の者がそういう地位に立ったら、テナルディエにもらった綱とこれからはいるべき第一の地牢《ちろう》の格子窓《こうしまど》とに、おそらく漠然《ばくぜん》と思いを馳《は》せたであろう。しかしミリエル司教に会って以来ジャン・ヴァルジャンのうちには、あらゆる暴行に対して、あえて言うが自身の生命を害する暴行に対しても、深い敬虔《けいけん》な躊躇《ちゅうちょ》の情があったのである。
 自殺ということは、未知の世界に対する一種神秘的な違法行為であり、ある程度まで魂の死を含み得るものであって、ジャン・ヴァルジャンにはなし得ないことだった。
 オンム・アルメ街の入り口で馬車は止まった。その街路は非常に狭くて馬車ははいれなかった。ジャヴェルとジャン・ヴァルジャンとは馬車から降りた。
 御者は馬車のユトレヒト製ビロードが、被害者の血と加害者の泥《どろ》とで汚点だらけになったことを、「警視様」にうやうやしく申し出た。彼はその事件を殺害だと思っていたのである。そして損害を弁償してもらわなければならないと言い添えた。同時に彼はポケットから手帳を取り出して、「何とか御証明を一行」その上に書いていただきたいと警視様に願った。
 ジャヴェルは御者が差し出してる手帳を退けて言った。
「待ち合わせと馬車代とをいれて全部でいくらほしいのか。」
「七時間と十五分になりますし、」と御者は答えた、「ビロードはま新しだったものですから、警視様、八十フランいただきましょう。」
 ジャヴェルはポケットからナポレオン金貨を四つ取り出して与え、馬車を返してやった。

 ジャン・ヴァルジャンはすぐ近くにあるブラン・マントーの衛舎かアルシーヴの衛舎かに、ジャヴェルが自分を徒歩で連れてゆくつもりだろうと思った。
 彼らはオンム・アルメ街にはいって行った。街路はいつものとおり寂然としていた。ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのあとに従った。彼らは七番地に達した。ジャン・ヴァルジャンは門を叩いた。門は開いた。
「よろしい。上ってゆくがいい。」とジャヴェルは言った。
 そして妙な表情をし、強《し》いて口をきいてるかのようなふうで言い添えた。
「わたしはここで君を待っている。」
 ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの顔をながめた。そんなやり方はジャヴェルの平素にも似合わぬことだった。けれども、今ジャヴェルが一種|傲然《ごうぜん》たる信任を彼に置いているとしても、それはおのれの爪《つめ》の長さだけの自由を鼠《ねずみ》に与える猫《ねこ》の信任であるし、またジャン・ヴァルジャンは一身を投げ出して万事を終わろうと決心していたので、別に大して驚くにも当たらないことだった。彼は戸を押し開き、家の中にはいり、もう寝ていて寝床の中から門を開く綱を引いてくれたその門番に、「私だ」と言い残し、階段を上っていった。
 二階にきて彼は立ち止まった。あらゆる悲しみの道にも足を休むべき場所がある。階段の上の窓は、揚げ戸窓になっていたが、いっぱい開かれていた。古い家には多く見受けられるとおり、その階段も外から明りが取られていて、街路が見えるようになっていた。ちょうど正面にある街路の光が少し階段に差して灯火《あかり》の倹約となって
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