き、それをジャヴェルに差し出した。
 文字が読めるくらいの光は、まだ空中に漂っていた。その上ジャヴェルの目は、夜の鳥のように暗中にも見える一種の燐光《りんこう》を持っていた。彼はマリユスの書いた数行を読み分けてつぶやいた。
「フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地、ジルノルマン。」
 それから彼は叫んだ。「おい、御者!」
 読者の思い起こすとおり、辻馬車《つじばしゃ》は万一の場合のために待っていた。
 ジャヴェルはマリユスの紙挾《かみばさ》みを取り上げてしまった。
 まもなく、馬車は水飲み場の傾斜をおりて汀《みぎわ》までやってき、マリユスは奥の腰掛けの上に置かれ、ジャヴェルとジャン・ヴァルジャンとは相並んで前の腰掛けにすわった。
 戸は閉ざされ、辻馬車《つじばしゃ》はすみやかに遠ざかって、川岸通りをバスティーユの方向へ上っていった。
 一同は川岸通りを去って、街路にはいった。御者台の上に黒く浮き出してる御者は、やせた馬に鞭《むち》をあてていた。馬車の中は氷のような沈黙に満たされていた。マリユスは身動きもせず、奥のすみに身体をよせかけ、頭を胸の上にぐたりとたれ、両腕をぶら下げ、足は固くなって、もうただ柩《ひつぎ》を待ってるのみであるように思われた。ジャン・ヴァルジャンは影でできてるかのようであり、ジャヴェルは石でできてるかのようだった。そして馬車の中はまったくの暗夜であって、街灯の前を通るたびごとに、明滅する電光で照らされるように内部が青白くひらめいた。死骸《しがい》と幽霊と彫像と、三つの悲壮な不動の姿が、偶然いっしょに集まって、ものすごく顔をつき合わしてるかと思われた。

     十 生命を惜しまぬ息子《むすこ》の帰宅

 舗石《しきいし》の上に馬車が揺れるたびごとに、マリユスの頭髪から一滴ずつ血がたれた。
 馬車がフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に達した時は、もうま夜中だった。
 ジャヴェルはまっさきに馬車からおり、大門の上についてる番地を一目で見て取り、牡山羊《おやぎ》とサチール神とが向かい合ってる古風な装飾のある練鉄の重い金槌《かなづち》を取って、案内の鐘を一つ激しくたたいた。片方の扉《とびら》が少し開いた。ジャヴェルはそれを大きく押し開いた。門番は欠伸《あくび》をしながら、ぼんやり目をさましたようなふうで、手に蝋燭《ろうそく》を持って半身を現わした。
 家の中は皆寝静まっていた。マレーでは皆早寝で、ことに暴動の日などはそうである。その善良な古い町は、革命と聞くと恐れおののき、眠りの中に逃げ込んでしまう。あたかも子供らが、人攫《ひとさら》い鬼の来るのを聞いて、急いで頭からふとんをかぶるようなものである。
 その間に、ジャン・ヴァルジャンは両わきをささえ御者は膝《ひざ》を持って、ふたりでマリユスを馬車から引き出した。
 そういうふうにマリユスをかかえながら、ジャン・ヴァルジャンは大きく裂けてる服の下に手を差し込んで、その胸にさわってみ、なお心臓が鼓動してるのを確かめた。しかも、馬車の動揺のためにかえって生命を取り返したかのように、心臓の鼓動はいくらか前よりもよくなっていた。
 ジャヴェルはいかにも暴徒の門番に対する役人といった調子で、その門番に口をきいた。
「ジルノルマンという者の家はここか。」
「ここですが、何の御用でしょう?」
「息子を連れ戻してきたのだ。」
「息子を?」と門番はぼんやりしたふうで言った。
「死んでいるんだ。」
 よごれたぼろぼろの服をつけたジャン・ヴァルジャンが、ジャヴェルのうしろに立ってるので、門番は恐ろしそうにそちらをながめていた。するとジャン・ヴァルジャンは頭を振って、死んでるのではないと合い図をした。
 門番にはジャヴェルの言葉もジャン・ヴァルジャンの合い図もよくわからないらしかった。
 ジャヴェルは続けて言った。
「この者は防寨《ぼうさい》に行っていたが、このとおり連れてきたのだ。」
「防寨に!」と門番は叫んだ。
「そして死んだのだ。親父《おやじ》を起こしに行け。」
 門番は身を動かさなかった。
「行けと言ったら!」とジャヴェルはどなった。
 そして彼は付け加えた。
「いずれ明日《あす》は葬式となるだろう。」
 ジャヴェルにとっては、公道における普通のできごとは、すべて整然と分類されていた。それは警戒と監視との第一歩である。そして各事件はそれぞれの部門を持っていた。普通にありそうな事柄はすべて、言わば引き出しの中にしまわれていて、場合に応じて必要なだけ取り出さるるのだった。街路の中には、騒擾、暴動、遊楽、葬式、などがあった。
 門番はただバスクだけを起こした。バスクはニコレットを起こした。ニコレットはジルノルマン伯母を起こした。祖父の方はなるべく遅く知らせる方がいいとされて、眠ったままに
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