《とびら》は開いた。擦《す》れる音もせず、軋《きし》る音もしなかった。ごく静かに開かれてしまった。それでみると明らかに、鉄格子と肱金《ひじがね》とはよく油が塗られていて、思ったよりしばしば開かれていたものらしい。その静けさは気味悪いものだった。隠密な往来がそこに感ぜられ、夜の男どもの黙々たる出入りと罪悪の狼《おおかみ》の足音とがそこに感ぜられた。下水道はまさしく、秘密な盗賊仲間の同類だった。音を立てないその鉄格子は贓品《ぞうひん》受け取り人だった。
 テナルディエは扉《とびら》を少し開き、ジャン・ヴァルジャンにちょうど通れるだけのすき間を与え、鉄格子《てつごうし》を再び閉ざし、錠前の中に二度|鍵《かぎ》を回し、息の根ほどの音も立てないで、暗黒の中にまた没してしまった、彼は虎のビロードのような足で歩いてるかと思われた。一瞬間の後には、天意ともいうべきその嫌悪《けんお》すべき男は、目に見えないもののうちにはいり込んでしまっていた。
 ジャン・ヴァルジャンは外に出た。

     九 死人と思わるるマリユス

 ジャン・ヴァルジャンはマリユスを汀《みぎわ》の上にすべりおろした。
 彼らは外に出たのである。
 毒気と暗黒と恐怖とは背後になった。自由に呼吸される清純な生きた楽しい健全な空気は、あたりにあふれていた。周囲は至る所静寂であったが、しかしそれは蒼空《あおぞら》のうちに太陽が沈んでいった後の麗わしい静寂だった。薄暮の頃で、夜はきかかっていた。夜こそは大なる救済者であり、苦難から出るために影のマントを必要とするあらゆる魂の友である。空は大きな平穏となって四方にひろがっていた。川は脣《くち》づけをするような音を立てて足下に流れていた。シャン・ゼリゼーの楡《にれ》の木立ちの中には、互いに就寝のあいさつをかわしてる小鳥の軽い対話が聞こえていた。ほの青い中天をかすかに通してただ夢想の目にのみ見える二、三の星は、無辺際のうちに小さな点となって輝いていた。夕はジャン・ヴァルジャンの頭の上に、無窮なるものの有するあらゆる静穏を展開していた。
 しかりとも否とも言い難い微妙な不分明な時間だった。既に夜の靄《もや》はかなり濃くなっていて、少し離るれば人の姿もよくわからないが、なお昼の明るみはかなり残っていて、近くに寄れば相手の顔が認められた。
 ジャン・ヴァルジャンはしばらくの間、そのおごそかなまたやさしい清朗の気にまったく打たれてしまった。かく我を忘れさせる瞬間もよくあるものである。そういう時、苦悩は不幸なる者をわずらわすのをやめる。すべては思念の中に姿を潜める。平和の気は夢想する者を夜のようにおおう。そして輝く薄明の下に、光をちりばむる空をまねて、人の魂も星に満たされる。ジャン・ヴァルジャンは頭の上に漂ってるその輝く広い影をうちながめざるを得なかった。彼は思いにふけりながら永劫《えいごう》の空のおごそかな静寂のうちに、恍惚と祈念との情をもって浸り込んだ。それから急に、あたかも義務の感が戻ってきたかのように、彼はマリユスの方へ身をかがめ、掌《てのひら》の窪《くぼ》の中に水をすくって、その数滴を静かに彼の顔にふりかけた。マリユスの眼瞼《まぶた》は開かなかった。けれども半ば開いてるその口には息が通っていた。
 ジャン・ヴァルジャンは再び川に手を入れようとした。その時、姿は見えないがだれかが背後に立ってるような言い知れぬ不安を突然感じた。
 だれでもそういう感銘を知ってるはずだが、それについては既に他の所で述べてきたとおりである。
 ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
 感じたとおり、果たして何者かがうしろにいた。
 背の高いひとりの男が、フロック形の長い上衣を着、両腕を組み、しかも右手には鉛の頭が見える棍棒《こんぼう》を持って、マリユスの上にかがんでるジャン・ヴァルジャンの数歩うしろの所に、じっと立っていた。
 それは影に包まれていて幽霊のように見えた。単純な者であったら、薄暗がりのために恐怖を感じたろう。思慮ある者であったら、棍棒のために恐怖を感じたろう。
 ジャン・ヴァルジャンはその男がジャヴェルであることを見て取った。
 テナルディエを追跡したのはジャヴェルにほかならなかったことを、読者は既に察したであろう。ジャヴェルは望外にも防寨《ぼうさい》から出た後、警視庁へ行き、わずかの間親しく総監に面接して口頭の報告をし、それからまた直ちに自分の任務についた。読者は彼のポケットに見いだされた書き付けのことを記憶しているだろう。それによると彼の任務には、しばらく前から警察の注意をひいていたセーヌ右岸のシャン・ゼリゼー付近を少し監視することも含まっていた。彼はそこでテナルディエを見つけ、その跡をつけたのだった。その後のことは読者の知るとおりである。
 ジャ
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