上に指摘したようなことを多少知っていたならば、ただ壁に手を触れただけで、サン・ドゥニ街の下水道にいるのではないことをすぐに気づいたろう。というのは、古い切り石の代わりに、すなわち花崗岩《かこうがん》と肥石灰|漆喰《しっくい》とで作られ一|尋《ひろ》八百フランもする底部と溝とを供えて下水道に至るまで広壮厳然たる昔の建築の代わりに、近代の安価な経済的方法、すなわちコンクリートの層の上に水硬石灰で固めた砂岩の一メートル二百フランの工事を、いわゆる小材料[#「小材料」に傍点]でできた普通の泥工事を、彼は手に感じたはずである。しかし彼はそれらのことを少しも知っていなかった。
彼は、何も見ず、何も知らず、偶然のうちに没し、言いかえれば天命のうちにのみ込まれて、懸念しながらも落ち着いて前方に進んでいった。
けれども実を言えば、彼はしだいにある恐怖の情にとらえられていった。彼を包んでいた影は彼の精神の中にもはいってきた。彼は一つの謎《なぞ》の中を歩いていたのである。その汚水の道は実に恐るべきものである。眩惑《げんわく》をきたさせるまでに入り組んでいる。その暗黒のパリーのうちにとらえらるる時、人は慄然《りつぜん》たらざるを得ない。ジャン・ヴァルジャンは目に見えない道を探り出してゆかなければならなかった。否ほとんど道を作り出してゆかなければならなかった。その不可知の世界においては、踏み出してみる各一歩は、それが最後の一歩となるかも知れなかった。いかにしてそこから出られるであろうか。出口が見つかるであろうか。しかも時期おくれにならないうちに出口が見つかるであろうか。石造の蜂《はち》の巣のようなその巨大な地下の海綿は、彼に中を通りぬけさせるであろうか。ある意外な闇《やみ》の結び目に出会いはしないだろうか。脱出し得られぬ所に、通過し得られぬ所に、陥りはしないだろうか。その中でマリユスは出血のために死に、彼は空腹のために死にはすまいか。ふたりともその中に埋没し終わって、二つの骸骨《がいこつ》となり、その暗夜の片すみに横たわるに至りはすまいか。それは彼自身にもわからなかった。彼はそれらのことを自ら尋ねてみたが、自ら答えることができなかった。パリーの内臓は一つの深淵《しんえん》である。いにしえの予言者のように、彼は怪物の腹中にいたのである。
突然彼は意外な驚きを感じた。最も思いがけない瞬間に、そしてやはりまっすぐに進み続けていた時に、傾斜を上っているのでないことに気づいた。水の流れは、爪先《つまさき》からこないで、踵《かかと》の方に当たっていた。下水道は今下り坂になっていた。どうしたわけだろう。さてはにわかにセーヌ川に出るのであろうか。セーヌ川に出るのは大なる危険であったが、しかし引き返すの危険は更に大きかった。彼は続けて前に進んだ。
しかし彼が進みつつあったのはセーヌ川の方へではなかった。セーヌ右岸にあるパリーの土地の高脈は、一方の水をセーヌ川に注ぎ他方の水を大溝渠《だいこうきょ》に注いでいる。分水嶺《ぶんすいれい》をなすその高脈は、きわめて不規則な線をなしている。排水を両方に分つ最高点は、サント・アヴォア下水道ではミシェル・ル・コント街の彼方《かなた》にあり、ルーヴルの下水道では大通りの近くにあり、モンマルトルの下水道では市場町の近くにある。ジャン・ヴァルジャンが到着したのは、その最高点であった。彼は囲繞溝渠《いじょうこうきょ》の方へ進んでいた。道筋はまちがっていなかった。しかし彼はそれを少しも自ら知らなかった。
枝道に出会うたびごとに、彼はその角《かど》に一々さわってみた。その口が今いる隧道《すいどう》よりも狭い時には、そちらに曲がり込まないでまっすぐに進んでいった。狭い道はすべて行き止まりになってるはずで、目的すなわち出口から遠ざかるだけであると、至当な考えをしたからである。かくして彼は、上にあげておいた四つの迷路によって暗黒のうちに張られてる四つの罠《わな》を、免れることができた。
時には、防寨《ぼうさい》のため交通が途絶され暴動のため石のように黙々としてるパリーの下から出て、いきいきたる平常のパリーの下にはいったのを、彼は感ずることができた。ふいに頭の上で、雷のような遠い連続した音が聞こえた。それは馬車の響きであった。
彼は約三十分ばかり、少なくとも自ら推測したところによると約三十分ばかり、歩き続けていたが、なお休息しようとも思わなかった。ただマリユスをささえてる手を代えたのみだった。暗さはいよいよ深くなっていたが、その深みがかえって彼を安心さした。
突然彼は前方に自分の影を認めた。影は足下の底部と頭上の丸天井とをぼんやり染めてるほのかな弱い赤みの上に浮き出していて、隧道のじめじめした両側の壁の上に、右へ左へとすべり動いた。彼は惘
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