去り、次にアフリカを投じ去ってしまった。ローマの下水道は世界をのみ込んだのである。その呑噬《どんぜい》の口を、市と世界とに差し出したのである。全く市と世界とに[#「市と世界とに」に傍点]([#ここから割り注]訳者注 ローマ法王の祝祷中にある言葉[#ここで割り注終わり])である。永遠の都市と、しかも底知れぬ下水道。
 他の方面におけると同じくこのことについても、ローマはその実例をたれている。
 明知の都市に固有な一種の愚昧《ぐまい》さをもって、パリーはその実例にならっている。
 かくて、今述べきたった事業を完成せんがために、パリーはその地下にも一つパリーを有するに至った。すなわち下水道のパリーである。そこにも街路があり、四つ辻《つじ》があり、広場があり、袋町があり、動脈があり、汚水の血が流れていて、ただ人影がないばかりである。
 何者にも、たとえ偉大なる民衆にも、阿諛《あゆ》の言を弄《ろう》してはならないから、吾人はあえて言うのである。すべてがある所には、崇高と相並んで卑賤《ひせん》も存する。パリーのうちには、光明の町たるアテネがあり、力の町たるチロがあり、勇気の町たるスパルタがあり、奇跡の町たるニニヴェがありはするが、また泥土《でいど》の町たるルテチア([#ここから割り注]訳者注 古代のパリー[#ここで割り注終わり])もある。
 けれどその力もまたそこに蔵されている。諸《もろもろ》の記念物のうちにおいても、パリーの巨大な下水の溝渠《こうきょ》は特に、マキアヴェリやベーコンやミラボーなどのごとき人物によって人類のうちに実現された不思議な理想を、すなわち卑賤《ひせん》なる壮大さを実現してるものである。
 パリーの地下は、もし中を透視し得るとするならば、巨大な石蚕《せきさん》の観を呈しているだろう。古い大都市が立ってる周囲六里のこの土地には、海綿も及ばないほど多くの水路や隘路《あいろ》がついている。別に一個の洞窟《どうくつ》をなしてる墳墓は別とし、ガス管の入り乱れた格子《こうし》の目は別とし、給水柱に終わってる上水分配の広大な一連の管は別として、ただ下水道だけでさえ、セーヌの両岸の下に暗黒な驚くべき網の目を作っている。それはまったく迷宮であって、その傾斜が唯一の道しるべである。
 その湿った靄《もや》の中には、パリーが産んだかと思える鼠《ねずみ》の姿が見えている。

     二 下水道の昔の歴史

 蓋《ふた》を取るようにパリー市を取り去ったと想像すれば、鳥瞰的《ちょうかんてき》に見らるる下水道の地下の網目は、セーヌ川に接木《つぎき》した大きな木の枝のようにその両岸に現われてくるだろう。右岸においては、囲繞溝渠《いじょうこうきょ》がその枝の幹となり、その分脈は小枝となり、行き止まりの支脈は細枝となる。
 しかしその形は、概略のものでまったく正確というわけにはゆかない。かかる地下の分枝の角《かど》は普通直角をなしているが、植物の枝には直角なのはきわめてまれである。
 その不思議な幾何学的図形にいっそうよく似た象《かたち》を想像しようとするならば、叢《くさむら》のように錯雑した不思議な東方文字を、暗黒面の上に平たく置いたと仮定すればよろしい。その妙な形の文字は、一見したところ入り乱れて無茶苦茶なようであるが、あるいは角と角とであるいは一端と一端とで、互いに結び合わされている。
 汚水だめや下水道は、中世や後期ローマ帝国や古い東方諸国などにおいて、多大の役目をなしていた。疫病はそこから発し、専制君主らはそこに死んだ。衆人はその腐敗の床を、恐るべき死の揺籃《ようらん》を、一種|敬虔《けいけん》な恐怖をもってながめていた。ベナレスの寄生虫の巣窟《そうくつ》は、バビロンの獅子《しし》の洞《ほら》にも劣らぬ幻惑を人に与えていた。ユダヤ神学の書物によれば、テグラート・ファラザル([#ここから割り注]訳者注 古代アッシリアの王[#ここで割り注終わり])はニニヴェの汚水だめによって誓っていた。ライデンのヨハンが偽りの月を出してみせたのは、ムュンステルの下水道からである。このヨハンに相当する東方人でコラサンの隠れた予言者モカナが、偽りの太陽を出してみせたのは、ケクシェブの汚水井戸からである。
 人間の歴史は下水溝渠《げすいこうきょ》の歴史に反映している。死体投棄の溝渠はローマの歴史を語っていた。パリーの下水道は古い恐るべきものであった。それは墳墓でもあり、避難所でもあった。罪悪、知力、社会の抗議、信仰の自由、思想、窃盗、人間の法律が追跡するまたは追跡したすべてのものは、その穴の中に身を隠していた。十四世紀の木槌暴徒《きづちぼうと》、十五世紀の外套盗賊《がいとうとうぞく》、十六世紀のユーグノー派、十七世紀のモラン幻覚派、十八世紀の火傷強盗、などは皆そこに
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