論することになったある訴訟事件において、偶然にも昔ラフィット家に雇われていた男と出会い、何も別に尋ねたわけではないが、不思議な話を聞かされた。もとより彼は秘密を厳守すると約束した手前もあり、ジャン・ヴァルジャンの危険な地位をも考えてやって、その話を深く探ることはできなかった。ただ彼はその時、果たすべき重大な義務があることを感じた。それはあの六十万フランを返却するということで、彼はその相手をできるだけひそかにさがし求めた。そしてその間金に手をつけることを避けた。
コゼットに至っては、それらの秘密を少しも知らなかった。しかし彼女を非難するのもまたあまり苛酷であろう。
一種の強い磁力がマリユスから彼女へ流れていて、そのために彼女は、本能的にまたほとんど機械的に、マリユスの欲するままになっていた。「ジャン氏」のことについても、彼女はマリユスの意志に感応して、それに従っていた。夫《おっと》は彼女に何も言う必要はなかった。彼女は夫《おっと》の暗黙の意向から漠然《ばくぜん》たるしかも明らかな圧力を感じて、それに盲従した。彼女の服従はここではただ、マリユスが忘れてることは思い出すまいというのにあった。そのためには何ら努力の要はなかった。彼女は自らその理由を知らなかったし、また彼女にとがむべきことでもないが、彼女の魂はまったく夫の魂となり了《おう》せて、マリユスの考えの中で影に蔽《おお》われてるものは皆、彼女の考えの中でも暗くなるのであった。
けれどもそれはあまり強く言えることではない。ジャン・ヴァルジャンに関することでは、その忘却と消滅とはただ表面的のものに過ぎなかった。彼女は忘れやすいというよりもむしろうっかりしていた。心の底では、長く父と呼んできたその男をごく愛していた。しかし夫《おっと》の方をなおいっそう愛していた。そのために彼女の心は、多少平衡を失って一方に傾いたのである。
時々、コゼットはジャン・ヴァルジャンのことを言い出して怪しむこともあった。するとマリユスは彼女をなだめた。「留守なんだろう。旅に出かけるということだったじゃないか。」それでコゼットは考えた。「そうだ。あの人はいつもこんなふうにいなくなることがあった。それにしてもこう長引くことはなかったが。」二、三度彼女はニコレットをオンム・アルメ街にやって、ジャン氏が旅から帰られたかと尋ねさした。ジャン・ヴァル
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