をささえ、そして市場町の方へ歩き出した。ジャン・ヴァルジャンはその姿を見送った。数歩進んだジャヴェルは振り向いて、ジャン・ヴァルジャンに叫んだ。
「君は俺《おれ》の心を苦しめる。むしろ殺してくれ。」
ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンに向かってもうきさまと言っていないのを自ら知らなかった。
「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
ジャヴェルはゆるい足取りで遠ざかっていった。やがて彼はプレーシュール街の角《かど》を曲がった。
ジャヴェルの姿が見えなくなった時、ジャン・ヴァルジャンは空中にピストルを発射した。
それから彼は防寨《ぼうさい》の中に戻って言った。
「済んだ。」
その間に次のことが起こっていた。
マリユスは防寨の内部より外部の方に多く気を取られて、下の広間の薄暗い奥に縛られた間謀《スパイ》をその時までよくは見なかった。
しかし、死にに行くため防寨をまたぎ越してる間謀《スパイ》をま昼の光で見た時、彼はその顔を思い出した。一つの記憶が突然頭に浮かんできた。ポントアーズ街の警視のことと、防寨の中で自分が使っている二梃《にちょう》のピストルはその警視からもらったものであることを、思い起こした。そしてその顔を思い起こしたばかりでなく、またその名前を思い起こした。
けれどもその記憶は、彼の他の観念と同じように、おぼろげで乱れていた。それは自ら下した断定ではなく、自ら試みた疑問であった。
「あの男は、ジャヴェルと名乗ったあの警視ではないかしら?」
たぶんまだその男のために調停する時間はあったろう。しかし、果たしてあのジャヴェルであるかをまず確かめなければならなかった。
マリユスは防寨の向こう端に位置を占めたアンジョーラを呼びかけた。
「アンジョーラ!」
「何だ!」
「あの男の名は何というんだ。」
「どの男?」
「あの警察の男だ。君はその名前を知ってるか。」
「もちろん。自分で名乗ったんだ。」
「何という名だ。」
「ジャヴェル。」
マリユスは身を起こした。
その時、ピストルの音が聞こえた。
ジャン・ヴァルジャンが再び現われて、「済んだ」と叫んだ。
暗い悪寒《おかん》がマリユスの心をよぎった。
二十 死者も正しく生者も不正ならず
防寨《ぼうさい》の臨終の苦悶《くもん》はまさに始まろうとしていた。
その最後の瞬間の悲痛な荘厳さ
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