た。

     十八 餌食《えじき》となれる禿鷹《はげたか》

 なお防寨《ぼうさい》に独特な心理的事実を一つ述べておきたい。この驚くべき市街戦の特色は一つたりとも省いてはいけないからである。
 上に述べたとおりその内部はいかにも不思議なほど静穏であるけれども、それでも中にいる人々にとっては、防寨はやはり一つの幻のごとく感じられるものである。
 内乱の中には黙示録的神秘がある。未知の世界のあらゆる靄《もや》は荒々しい炎を交じえている。革命はスフィンクスである。防寨の中を通った者はだれでも、夢の中を過ぎたかと自ら思う。
 そういう場所で人が感ずるところのものは、既にわれわれがマリユスについて指摘してきたとおりであり、また結果もやがて述べんとするとおりであるが、実に生《せい》以上でありまた以下である。一度防寨を出れば、そこで何を見てきたかはもうわからなくなる。恐ろしいものであったが、さて何であったかはわからない。人の顔をして戦ってる多くの観念にとりかこまれていた。未来の光明の中に頭をつき込んでいた。死体が横たわり幽霊がつっ立っていた。時間は巨大であって永劫《えいごう》が有する時間のようだった。死の中に生きていた。もろもろの陰影が過ぎ去っていった。しかしそれらは何であったか? 血の流るる手をも見た。耳を聾《ろう》するばかりの恐ろしい響きがあり、また恐怖すべき静寂があった。叫んでるうち開いた口があり、また沈黙してるうち開いた口があった。煙に包まれていたし、おそらくやみ夜に包まれていた。測り知られぬ深みから流れ出る凄惨《せいさん》なものに触れたようでもあった。爪《つめ》の中に何か赤いもののついてるのが見える。しかしもはや何のことだか思い出せないのである。
 さて、シャンヴルリー街に戻ってみよう。
 突然、二度の一斉射撃《いっせいしゃげき》の間に、時を報ずる遠い鐘の音が聞こえた。
「正午だ。」とコンブフェールは言った。
 その十二の鐘が鳴り終えないうちに、アンジョーラはすっくと立ち上がり、防寨の上からとどろくような声を出して叫んだ。
「舗石《しきいし》を家の中に運べ。窓や屋根裏にそれをあてろ。人員の半分は射撃にかかり、半分は舗石の方にかかるんだ。一刻も猶予はできない。」
 肩に斧《おの》をかついだ消防工兵の一隊が、街路の先端に戦闘隊形をなして現われたのだった。
 それは一縦隊
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