モうにかかえたら痛くない? どこが痛む? ああどうしたら? だがいったい何しにここへきたんだ?」
そして彼は、腕を彼女の下に入れて助け起こそうとした。
そうしながら彼女の手に触れた。
彼女は弱い声を立てた。
「痛かった?」とマリユスは尋ねた。
「ええ少し。」
「でも手にさわったばかりだが。」
彼女はマリユスの目の方へ手をあげた。見ると手のまんなかに黒い穴があいていた。
「手をどうしたんだ。」と彼は言った。
「突き通されたのよ。」
「突き通された!」
「ええ。」
「何で?」
「弾《たま》で。」
「どうして?」
「あなたをねらった鉄砲があったのを、あなたは見て?」
「見た、それからその銃口を押さえた手も。」
「あたしの手よ。」。
マリユスは駭然《がいぜん》とした。
「なんて乱暴な! かわいそうに! だがまあよかった、それだけのことなら何でもない。僕に任せるがいい、寝床に連れてってやるから。包帯をしてもらってやろう。手を貫かれたくらいで死にはしない。」
彼女はかすかに言った。
「弾《たま》は手を突き通して、背中へぬけたのよ。ここからあたしを外へ連れてってもだめ。あたしほんとは、お医者よりあなたの看護の方がいいの。あたしの傍《そば》にこの石の上にすわって下さいな。」
彼はその言葉に従った。彼女は彼の膝《ひざ》の上に頭をのせ、その顔から目をそらして言った。
「ああ、ありがたい。ほんとによくなった。もうこれであたし苦しかない。」
彼女はちょっと口をつぐんだ。それからようやくに顔をめぐらしてマリユスをながめた。
「ねえ、マリユスさん、あなたがあの庭にはいるのがあたしはいやだったのよ。ばかげてるわね。あの家をあなたに教えたのはあたしだったもの。それにまたあたしはこう考える方が本当だったかも知れないわ、あなたのような若い方は……。」
彼女は言葉を切った。そして確かに頭の中にあった暗い思いを一転して、痛ましい微笑を浮かべながら言った。
「あなたあたしを不綺麗《ぶきりょう》な女だと思ったでしょう、そうじゃなくて?」
彼女は続けて言った。
「ねえ、あなたはもう助からない! 今となってはだれも防寨《ぼうさい》から出られはしないわ。あなたをここへ呼んだのはあたしよ。あなたはどうせ間もなく死ぬにきまってるわ。あたしそれをちゃんと知ってるの。だけど、人があなたをねらうのを見た時、あたしはその鉄砲の口に手をあてたわ。ほんとに変ね。でもあなたより先に死にたかったからよ。弾《たま》を受けた時、あたしはここまではってきたの。だれにも見つからず、だれからも助けられなかった。あたしあなたを待ってたわ。きなさらないのかしら、とも思ったの。あああたしは、上衣をかみしめたり、どんなに苦しんだでしょう。でも今はもう何ともない。あなたは覚えていて? あたしがあなたの室《へや》にはいって鏡に顔を映してみたあの日のこと、それからまた、日雇《ひやと》い女《おんな》たちのそばで大通りであなたに会った日のことも。小鳥が歌ってたわ。そう長い前のことでもないわ。あなたはあたしに百スー([#ここから割り注]五フラン[#ここで割り注終わり])下すったわね。あなたのお金なんかほしいんじゃない、とあたしは言ったでしょう。あなたせめてあの金を拾ったでしょうね。あなたは金持ちじゃないんだもの。あたしあの金を拾いなさいとあなたに言うのを忘れたのよ。日が照っていて、寒くはなかったわね。マリユスさん、あなた思い出して? おおあたしほんとにうれしい。みな死んでしまうんだわ。」
彼女の様子は、気も狂わんばかりで、しかもまじめで悲痛だった。裂けた上衣からはあらわな喉元《のどもと》が見えていた。口をききながら射貫かれた手を胸に当てていたが、そこにもも一つ穴があいていて、開いた樽《たる》から葡萄酒《ぶどうしゅ》がほとばしり出るように刻々に血潮が流れ出ていた。
マリユスはそのあわれな女を、深い惻隠《そくいん》の情で見守っていた。
「ああ、」と突然彼女は言った、「また始まった。息がつまりそう!」
彼女は上衣をつかんで歯で食いしめた。その両膝《りょうひざ》は舗石《しきいし》の上に固くなっていた。
その時、少年ガヴローシュの若々しい声が防寨《ぼうさい》の中に響いた。彼は銃に弾《たま》をこめるためにテーブルの上に上がり、当時よくはやっていた小唄《こうた》を快活に歌ったのである。
[#ここから4字下げ]
ラファイエットの姿を見、
憲兵どもはくり返す、
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
[#ここで字下げ終わり]
エポニーヌは身を起こして耳を澄ました。それからつぶやいた。「そうだ。」
そしてマリユスの方を向いて言った。
「弟がきてるのよ。見つかっては困るわ。文句を言うに違いないから。」
「弟だって?」とマリユスは尋ねた。彼は心の底の最も苦しい悲しい奥で、父から遺言されたテナルディエ一家の者に対する義務のことを考えていたのである。「弟というのはどの男だ?」
「あの子供よ。」
「歌を歌ってるあの子供?」
「ええ。」
マリユスは身を動かした。
「ああ行ってはいや!」と彼女は言った、「もうあたし長くもたないから。」
彼女はほとんど半身を起こしていた。しかしその声はごく低くて、吃逆《しゃくり》に途切れていた。間を置いては時々、死にぎわのあえぎが口をきくのを妨げた。彼女はできるだけ近く自分の顔をマリユスの顔に寄せていた。そして異様な表情をして言い添えた。
「聞いて下さいな、あたしあなたをだますのはきらいだから。ポケットの中に、あなたあての手紙を持ってるのよ。昨日《きのう》からよ。郵便箱に入れてくれと頼まれたのを、取って置いたのよ。あなたに届くのがいやだったから。だけど、あとでまた会う時、あなたから怒《おこ》られるかも知れないと思ったの。また会えるのね。あの世で。手紙を取って下さいな。」
彼女は穴のあいた手で、痙攣《けいれん》的にマリユスの手をつかんだ。もう痛みをも感じていないらしかった。そしてマリユスの手を自分の上衣ポケットにさし入れさした。マリユスは果たしてそこに紙があるのを感じた。
「取って下さい。」と彼女は言った。
マリユスは手紙を取った。
彼女は安心と満足との様子をした。
「さあその代わりに、約束して下さいな……。」
そして彼女は言葉を切った。
「何を?」とマリユスは尋ねた。
「約束して下さい!」
「ああ約束する。」
「あたしが死んだら、あたしの額に接吻《キス》してやると、約束して下さい。……死んでもわかるでしょうから。」
彼女はまた頭をマリユスの膝《ひざ》の上に落とし、眼瞼《まぶた》を閉じた。彼はもうそのあわれな魂が去ったと思った。エポニーヌはじっと動かなかった。すると突然、もう永久に眠ったのだとマリユスが思った瞬間、彼女は静かに、死の深い影が宿ってる目を見開いた。そして他界から来るかと思われるようなやさしい調子で彼に言った。
「そして、ねえ、マリユスさん、あたしいくらかあなたを慕ってたように思うの。」
彼女はも一度ほほえもうとした。そして息絶えた。
七 距離の推測に巧みなるガヴローシュ
マリユスは約束を守った。彼は冷たい汗がにじんでる青ざめた額に脣《くちびる》をあてた。それはコゼットに不実な行ないではなかった。不幸なる魂に対する心からのやさしい別れだった。
彼はエポニーヌから手紙を受け取った時、思わず身を震わした。彼は即座にその内容の重大なことを感じた。そして早く読んでみたくてたまらなかった。人の心はこうしたものである。不運な娘が目を閉じるや否やマリユスはもう手紙を開こうと思った。彼は娘の体を静かに下に置き、そして立ち去った。なぜともなく、その死骸《しがい》の前で手紙を読んではいけないような気がしたのである。
彼は居酒屋の下の室《へや》にともってる蝋燭《ろうそく》に近寄った。手紙は小さく折りたたまれたもので、女らしいやさしい注意で封がしてあった。あて名は女の筆蹟でこう書かれていた。
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ヴェールリー街十六番地、クールフェーラック様方、マリユス・ポンメルシー様へ。
[#ここで字下げ終わり]
彼は封を切って読み下した。
[#ここから2字下げ]
いとしき御方、悲しくも父はすぐに出発すると申します。私どもは今晩、オンム・アルメ街七番地に参ります。一週間すればもうロンドンへ行っておりますでしょう。――六月四日、コゼット。
[#ここで字下げ終わり]
ふたりの恋は非常に無邪気なもので、マリユスは今までコゼットの筆蹟さえも知らなかった。
これまでの経過は数語につくされ得る。それはすべてエポニーヌの仕業《しわざ》であった。六月三日の晩以来、彼女は二つの考えをいだいた。一つはプリューメ街の家に対する父とその他の盗賊の計画を破ること、一つはマリユスをコゼットから引き離すことだった。彼女は通りかかりの若い無頼漢と着物を取りかえた。男はおもしろがって女装をし、エポニーヌの方は男装をした。シャン・ド・マルスの練兵場でジャン・ヴァルジャンに引っ越せ[#「引っ越せ」に傍点]という意味ありげな勧告を与えたのは、彼女だった。ジャン・ヴァルジャンは家に帰り、コゼットに言った。「今晩ここを引き払って[#「今晩ここを引き払って」に傍点]、トゥーサンといっしょにオンム[#「トゥーサンといっしょにオンム」に傍点]・アルメ街に行くんだよ[#「アルメ街に行くんだよ」に傍点]。来週はロンドンに行こう[#「来週はロンドンに行こう」に傍点]。」コゼットはその意外な打撃を受けて、マリユスに一言走り書きをした。しかしどうしてそれを郵便箱に入れたものか、見当がつかなかった。彼女はかつてひとりで外出することがなかったし、またトゥーサンに頼めば、そんな使いに驚いてきっと手紙をフォーシュルヴァン氏に見せるに違いなかった。そういう心配の最中に、コゼットは鉄門から、男装をしてるエポニーヌの姿を認めた。エポニーヌは今では、絶えず表庭のまわりをうろついていた。コゼットはその「若い労働者」を呼び止め、手紙に五フランを添えて渡しながら言った。「この手紙をすぐにあて名の人の所へ持って行って下さい。」エポニーヌは手紙をポケットの中にしまった。翌日の六月五日に、彼女はクールフェーラックの家へ行って、マリユスを尋ねた。それは手紙を渡すためではなく、嫉妬《しっと》と恋とをいだく者にはよくわかることであるが、「様子を見るため」だった。そこで彼女はマリユスを、あるいは少なくともクールフェーラックを待っていた。それもやはりただ様子を見るためだった。そして、「われわれは防寨《ぼうさい》に行くんだ」とクールフェーラックが言った時、彼女の頭にふとある考えが浮かんだ。どうせ身を殺すならその死の淵《ふち》の中へ飛び込んでやり、マリユスをも引き込んでやろう。彼女はクールフェーラックのあとについて行き、防寨が築かれる場所を確かめた。そして、マリユスはまだ何らの通知も受けていないし、手紙は自分が横取りしてるので、彼はきっと日が暮れると毎晩のように出会いの場所へ行くに違いないと考えて、プリューメ街に行き、そこでマリユスを待ち受け、彼を防寨におびき出せるに違いないと思われる呼び声を、友人らの名を借りて投げつけた。彼女はマリユスがコゼットのいないのを見いだすおりの絶望をあてにしていたが、その期待ははずれなかった。そして彼女はそのままシャンヴルリー街に戻っていった。そこで彼女が何をしたかは、読者の見てきたとおりである。彼女は自分の死のうちに愛する者を引き込み、「だれのものにもさせない!」と言って死ぬという、嫉妬《しっと》の心の悲痛な喜びをいだいて、死んでいったのである。
マリユスは幾度となくコゼットの手紙に脣《くちびる》をあてた。彼女はやっぱり自分を愛していたのか! 彼はちょっとの間、もう死ななくてもいいという気が起こった。しかし次に彼は自ら言った。「彼女は行ってしまうのだ。父に連れられてイギリスにゆくし、私の祖父は結婚を承諾しない。悲し
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