Bしかし僕がもし金持ちであったら、世の中に貧乏な者をなくしてみせる。だれでも酒が飲めるようにしてみせる。おおもし善良なる心の者をしてふくれたる財布を持たしめば、万事はいかにうまくゆくことであろうぞ! ロスチャイルドの財産を有するイエス・キリストを僕は想像する。いかに多くの善を彼はなすであろう! マトロート、僕を抱け。お前はあでやかでしかも臆病だ。お前の頬《ほお》は妹の脣《くち》づけを呼び、お前の脣《くち》は恋人の脣づけを招く!」
「黙れ、酒樽《さかだる》めが!」とクールフェーラックは言った。
 グランテールは答えた。
「僕はカピトゥールにして詩花会の主脳だ!」([#ここから割り注]訳者注 カピトゥールはツールーズの市吏員の古称で、またこの市には、毎年一回詩花会という、詩文の懸賞競技会が開かれていた[#ここで割り注終わり])
 手に銃を持って防堤の上に立っていたアンジョーラは、その厳乎《げんこ》たる美しい顔を上げた。読者の知るとおりアンジョーラにはスパルタ人の面影と清教徒の面影とがあった。テルモピレーにてレオニダスとともに死し、クロンウェルとともにドロゲダの町を焼き払うのに、彼はふさわしい男だった。
「グランテール!」と彼は叫んだ、「他の所で一眠りして酔いをさましてこい。ここは熱血児の場所で、酔っ払いの場所ではない。君は防寨《ぼうさい》の汚れだ。」
 その憤激の一語は、グランテールに特殊な影響を与えた。彼はあたかも顔に一杯の冷水を浴びせられたようだった。そしてにわかにまじめになった。彼は腰をおろし、窓のそばのテーブルの上に肱《ひじ》をつき、何とも言えぬやさしさでアンジョーラをながめ、そして彼に言った。
「僕は君を信頼してるよ。」
「行っちまえ。」
「ここへ寝かしてくれ。」
「他の所へ行って寝ろ。」とアンジョーラは叫んだ。
 しかしグランテールは、当惑したようなやさしそうな目をなお彼の上に据えて答えた。
「ここに僕を眠らしてくれたまえ……死ぬるまで。」
 アンジョーラは軽蔑の目で彼をながめた。
「グランテール、君は信ずることも、思索することも、意欲することも、生きることも、死ぬることも、みなできない男だ。」
 グランテールはまじめな声で返答した。
「まあ見ていたまえ。」
 彼はなお聞き取り難い言葉を少しつぶやいたが、それからテーブルの上に重そうに頭をたれ、アンジョーラから酩酊《めいてい》の第二期に突然手荒く押し込まれたので、その常として、間もなく眠りに陥ってしまった。

     四 寡婦ユシュルーに対する慰謝

 バオレルは防寨《ぼうさい》ができたのに狂喜して叫んだ。
「さあ街路はふさがったぞ。うまくいった!」
 クールフェーラックは居酒屋を少しうちこわしながらも、寡婦《やもめ》の上さんを慰めようとしていた。
「ユシュルーお上《かみ》さん、こないだジブロットが敷き布を窓からふるったというので、警察から調べられて違警罪に問われたというじゃないですか。」
「そうですよ、クールフェーラックさん。ですがまあ、そのテーブルまであなたは恐ろしい所に持ち出すつもりですか。敷き布のことと、屋根裏から植木鉢《うえきばち》を一つ往来に落としたというだけで、百フランの罰金を政府《おかみ》から取られたんですよ。あまりひどいではありませんか。」
「だから、お上さん、われわれがその仇《かたき》をうってやろうというんです。」
 ユシュルー上さんは、今皆がなしてるような返報が自分のためになるとはよくわかっていないらしかった。彼女は昔のあるアラビアの女のような仕方で満足させられていたのである。その女というのは、夫《おっと》から頬《ほお》を打たれ、父の所へ行ってそれを訴え、返報を求めて言った、「お父さん、私の夫に対して侮辱の仕返しをして下さい。」父は尋ねた、「どちらの頬をお前は打たれたのか。」「左の頬です。」父は娘の右の頬を打って言った、「これでいいだろう。夫に言うがよい。彼は私の娘を打った、しかし私は彼の妻を打ったと。」
 雨はやんでいた。新たな者らも到着した。労働者らは上衣の下に隠して種々なものを持ってきていた、火薬の樽《たる》一個、硫酸の壜《びん》のはいってる籠《かご》一つ、謝肉祭用の炬火《たいまつ》二、三本、「国王祝名祭の残り物」たる灯明皿《とうみょうざら》のはいった一つの籠。この祭は少し前、五月一日に行なわれたのだった。それらの品物は、サン・タントアーヌ郭外のペパンという雑貨商の家から持ってこられたということである。また、シャンヴルリー街のただ一つの街灯、その向こうサン・ドゥニ街にある街灯、それからモンデトゥールやシーニュやプレシュールやグランド・トリュアンドリーやプティート・トリュアンドリーなど付近の街路のあらゆる街灯を、人々はこわしてしまった。
 アンジョーラとコンブフェールとクールフェーラックとがすべてを指揮していた。そして今や二つの防寨《ぼうさい》が、コラント亭を基点として直角をなすように同時に築かれていた。大きい方はシャンヴルリー街をふさぎ、も一つはモンデトゥール街のシーニュ街の方面をふさいでいた。このあとの方のはごく狭くて、樽《たる》と舗石《しきいし》とだけで作られた。働いてる者は約五十人で、その三十人ばかりは銃を持っていた。途中で彼らはある武器商の店をすっかり徴発してきたのである。
 この一隊は実に異様で雑然たるものだった。短上衣を着て騎兵用のサーベルを一つとピストルを二つ持ってる者もあり、シャツ一枚になり丸い帽子をかぶってわきに火薬盒《かやくごう》を下げてる者もあり、灰色の九枚合わせた紙の胸甲をつけて馬具職工用の皮針《かわばり》を持ってる者もあった。「敵を一人残らず[#「敵を一人残らず」に傍点]屠《ほふ》って自分の剣で死ぬんだ[#「って自分の剣で死ぬんだ」に傍点]!」と叫んでる者もあった。しかしその男は剣を持っていなかった。またある男は、その長上衣の上に国民兵の皮帯と弾薬盒とをつけていたが、弾薬盒の被布には公の秩序[#「公の秩序」に傍点]と赤ラシャで縫いつけられていた。隊の番号がついてる銃を持ってる者が多く、帽子をかぶってる者はごく少なく、襟飾《えりかざ》りをしてる者はひとりもなく、たいてい皆腕をまくり、また槍《やり》を持ってる者もいた。それに加うるに、あらゆる年齢、あらゆる顔つき、青白い少年、日に焼けた川岸人足。みな仕事を急ぎ、また互いに助け合いながら何かの希望を語り合っていた。朝の三時ごろには援兵が来るかも知れない――ある一つの連隊はあてにできる――パリー全市が蜂起《ほうき》するだろう。また一種の親しい快活さがこもってる恐ろしい言葉をかわしていた。あたかも皆兄弟のようであったが、実は互いに名前も知っていなかった。大なる危険は、未知の間柄をも互いに兄弟たらしむる美点を持っている。
 料理場には火が熾《おこ》されて、片口や匙《さじ》やフォークなどすべて居酒屋にある錫製《すずせい》のものが、弾型の中で熔《と》かされていた。その片手間に人々は酒を飲んだ。雷管や大弾が、杯といっしょになってテーブルの上に並んでいた。球突場の広間では、ユシュルー上《かみ》さんとマトロートとジブロットとが、恐怖のため三様の変化を受けて、ひとりは惘然《ぼうぜん》としひとりは息をはずましひとりはほんとに目をさまし、古布巾《ふるふきん》を引き裂いて綿撒糸《めんざんし》をこしらえていた。三人の暴徒が彼女らに手伝っていた。髪の毛が長くて頤鬚《あごひげ》と口髭《くちひげ》とのあるたくましい男どもで、リンネル女工のような手つきで布を選《え》り分けながら、彼女らをおびえさしていた。
 クールフェーラックとコンブフェールとアンジョーラとが、ビエット街の角《かど》で一隊のうちにはいってきたのを見つけた背の高い男は、小さな方の防寨《ぼうさい》で働いていて、はなはだ役に立っていた。ガヴローシュは大きい方の防寨で働いていた。クールフェーラックの家で待っていてマリユスのことを尋ねた若者は、乗り合い馬車をひっくり返す頃から姿を隠してしまった。ガヴローシュは、すっかり有頂天になり顔を輝かして、推進機の役目をしていた。行き、きたり、上り、下り、また上り、騒ぎ、叫んでいた。あたかも一同に元気をつけるためにきてるかのようだった。身を打つ鞭《むち》としては確かに困窮を持っており、飛び回る翼としては確かに快活を持っていた。ガヴローシュは一つの旋風であった。絶えずその顔が現われ、常にその声が聞こえた。同時に至る所に出没して、空中にまでいっぱいひろがっていた。ほとんど目まぐるしいほどの普遍的存在物で、一定の所に止めることはできなかった。大きな防寨はその背中にはっきり彼を感じていた。遊んでる者らを妨げ、懶《なま》けてる者らを刺激し、疲れてる者らを元気づけ、考え込んでる者らを急《せ》き立て、ある者を快活にし、ある者を奮起させ、ある者を憤激させ、すべての者を推し動かし、学生を鼓舞し、労働者を激励し、身を据え、立ち止まり、また駆け出し、騒擾《そうじょう》と努力との上を翔《かけ》り、あちらこちら飛び回り、ささやき、怒鳴り、全員を鞭打《むちう》っていた。実に彼は広大な革命の馬車の繩《なわ》であった。
 その小さな双腕は絶えず働き、その小さな肺は絶えず音を立てていた。
「しっかりやれ! もっと舗石《しきいし》だ、もっと樽《たる》だ、もっと道具だ! どこにあるんだ? この穴をふさぐ漆喰《しっくい》をいっぱい持ってこい。こんな小さな防寨《ぼうさい》ではだめだ。もっと高めなくちゃいかん。何でもある物はみんな積め、横にあてろ、ぶち込んじまえ。家をこわせ。防寨はジブー魔女のお茶だ。やあ、ガラス戸がきた。」
 その一語に、働いてる者らは叫んだ。
「ガラス戸だと! そんな物をどうしようというんだ、チュベルキュール!([#ここから割り注]小僧めが[#ここで割り注終わり])」
「何だヘルキュール!([#ここから割り注]大僧めが[#ここで割り注終わり])」とガヴローシュは答え返した。「ガラス戸は防寨には素敵だ。攻めることはできるが、取ることはできねえ、壜《びん》の破片《かけら》が立ってる壁越しに林檎《りんご》を盗んだことがあるか。国民兵が防寨に上ろうとすりゃあ、ガラス戸で足の蹠《うら》を切っちまわあ。へん、ガラスという奴《やつ》は裏切り人だ。お前たちにはいい考えはねえんだな!」
 また彼は、撃鉄のないピストルのことにいら立っていた。人ごとに尋ね回った。「銃をくれ! 銃がいるんだがな。なぜだれも俺《おれ》に銃をくれねえのか。」
「お前に銃だって!」とコンブフェールは言った。
「なに!」とガヴローシュは答え返した、「どうしていけねえんだ? 一八三〇年には、シャール十世と戦った時には、俺だって一つ持っていたんだぜ。」
 アンジョーラは肩をそびやかした。
「大人《おとな》に余ったら子供にもやるよ。」
 ガヴローシュは昂然《こうぜん》と向き返って、彼に答えた。
「お前が先に死んだら、お前のを俺《おれ》がもらってやる。」
「小僧!」とアンジョーラは言った。
「青二才!」とガヴローシュは言った。
 うっかりしてる洒落者《しゃれもの》が街路の向こうを通りかかったので、その方に心が向いた。
 ガヴローシュはその男に叫んだ。
「こっちにこないか、若いの! 老いぼれた祖国のために、何か一つ働いてみる気はないか。」
 洒落者は逃げ出してしまった。

     五 準備

 当時の新聞に、このシャンヴルリー街の防寨《ぼうさい》は、ほとんど難攻不落の構造[#「ほとんど難攻不落の構造」に傍点]であって、二階ほどの高さにおよんでいたと書き立てたが、それはまちがいである。実際はただ六、七尺の高さにすぎなかった。そして戦士が思うままにその背後に隠れ、あるいはそこから瞰射《かんしゃ》し、またはその頂上にも上れるよう、内部には段をなして積み重ねた舗石《しきいし》が四列作られていた。防寨の前面には、舗石や樽《たる》がつみ重ねられ、更にアンソーの荷車と乗り合い馬車とがひ
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