のことを、それらの異変を、彼は目のあたりながめた。国約議会の法廷に過去の各世紀が召喚さるるのを、彼は見た。責任を負わせられた不幸なルイ十六世の背後に、恐るべき被告の王政が闇《やみ》のうちにつっ立つのを、彼は見た。そして、ほとんど神の裁きほどに超個人的なる民衆の広大な裁きに対する畏敬の念が、彼の心の底に残されたのである。
大革命が彼のうちに残した感銘は非常に大なるものであった。彼の思い出は、それらの偉大な年月の一分時をも余さない生きた刻印のごときものであった。ある日彼は、確かな一目撃者の前において、立憲議会員のアルファベット順の名簿中のAの部全体をただ記憶だけで正誤したことがあった。
ルイ・フィリップは白日の王であった。彼の治世中は、印刷出版は自由であり、弁論は自由であり、信仰と言語とは自由であった。九月(一八三五年)の法律は明るみにさらされている。光は特権をついばむの力を持ってると知りつつも、彼はなお自分の王位を光にさらして顧みなかった。歴史は彼にその公正さを認めてやるべきである。
ルイ・フィリップも、舞台を去ったあらゆる史上の人物の例にもれず、今日では既に人類の本心によって裁かれ始めている。しかし彼の裁判はまだ第一審に止まっている。
歴史がその敬すべき自由な音調をもって語る時期は、彼に対してはまだ到来してはいない。この王に対して最後の判決を下すべき時はまだきたっていない。謹厳高名なる歴史家ルイ・ブランも、最初の判定を最近自ら緩和している。ルイ・フィリップはいわゆる二百二十一人および一八三〇年と称せられるところのものによって、すなわち半端議会《はんぱぎかい》と半端革命とによって、ほとんど両者から選出されたのである。そして結局、哲理が身を置くべき高き見地よりするならば、吾人は上《かみ》に暗示しておいたごとく、多少の控え目をもってするでなければ絶対の民主主義の名においてここに判定を与うることはできないであろう。絶対の目よりすれば、二つの権利を、すなわち第一に人間の権利を第二に民衆の権利を外にしては、すべては簒奪《さんだつ》となる。しかしそれらのことを控えておいて、今日吾人が言い得るのは次のことである。すなわち、要するにまたいかなる方面よりながめてもルイ・フィリップは、彼自身だけを引き離しかつ人間的善良さの見地よりするならば、ここに古き歴史の古き言葉を使って言えば、王位に上った君主のうちの最上なるもののひとりとなるであろう。
ところで、彼の価値を落とすものは何であるか? 王位である。しかしルイ・フィリップより王を差し引けば、彼は一個の人間となる。そしてその人間は善良である。時としては嘆賞すべきまでに善良である。しばしば、重大な心痛のうちに、大陸の各外交術数と戦った一日の後に、彼は夕方自分の部屋に退いた。そして疲労と睡魔とに襲われながらも、彼はそこで何をなしたか? 訴訟記録を取り上げ、重罪裁判事件を検査しつつ夜を過ごした。全ヨーロッパに対抗するも一事ではあるが、しかし死刑執行人の手よりひとりの男を救い出すのはなおいっそう重大なことであると、彼は思っていたのである。彼は司法卿に執拗《しつよう》に対抗し、法の饒舌者ら[#「法の饒舌者ら」に傍点]と彼が呼んでいた検事らと絞首台について仔細《しさい》に議論を戦わした。時としてはつみ重なった訴訟記録でテーブルがいっぱいになることもあったが、彼はそれを皆一々調べた。それらのみじめなる刑人らを見捨てるのは彼の苦痛とするところだった。ある日、前に上げたのと同じ目撃者に彼は言った、「今晩自分は七人を救った[#「今晩自分は七人を救った」に傍点]。」その治世の初めの頃は、死刑はほとんど廃せられたかの観があり、絞首台を立てることは非常に王の心をそこなった。グレーヴの刑場は本家の王位とともに消滅し、市井の一グレーヴがバリエール・サン・ジャックの名の下に設けられた。「実際家ら」はせめて準定法の一絞首台の必要を感じた。そしてこの点は、中流民の狭量な方面を代表するカジミール・ペリエがその自由な方面を代表するルイ・フィリップに対して得た勝利の一つだった。ルイ・フィリップは自らベッカリア([#ここから割り注]訳者注 刑法の緩和改進を主義とするイタリーの学者[#ここで割り注終わり])の著書に注釈を施した。フィエスキーの機械([#ここから割り注]訳者注 ルイ・フィリップを倒さんとしてフィエスキーが使用した特別の機械[#ここで割り注終わり])の事件の後、彼は叫んだ。「自分が負傷だもしなかったことは実に遺憾である[#「自分が負傷だもしなかったことは実に遺憾である」に傍点]、負傷したならば特赦を施してやることができたであろうに[#「負傷したならば特赦を施してやることができたであろうに」に傍点]。」またある時、彼は大臣らの反対を風諭して、近代の最も秀《ひい》でた人物の一であるある国事犯人のことに関してしたためた。「彼の赦免は既に与えられている[#「彼の赦免は既に与えられている」に傍点]、今はただ自分がそれを手に入れることだけである[#「今はただ自分がそれを手に入れることだけである」に傍点]。」ルイ・フィリップはルイ九世のごとく温和でありアンリ四世のごとく善良であった。
そして吾人に言わすれば、歴史中においては善良さはまれなる宝石とも言い得るがゆえに、善良であった者は偉大であった者よりもほとんどまさると言ってもさしつかえない。
ルイ・フィリップは、ある者からは厳重に評価され、またある者からはおそらく苛酷に評価されたために、彼を知っていた一人の者([#ここから割り注]訳者注 本書の著者[#ここで割り注終わり])が、それもはや今日では幽界の身に等しい者ではあるが、歴史に対して彼のために弁護の陳述をなしに来るのは、きわめて至当なことである。その陳述はいかなる内容であろうと、何よりもまず私念なきものであることは明らかである。死者によって書かれた碑文はまじめなものである。一つの霊魂は他の霊魂を慰めることも得よう。同じ暗黒を分有することは賞讃するの権利を与えてくれるだろう。そして亡命せる二つの墓について、「これは彼に媚《こ》びている」と人に言われる懸念は、ほとんどないのである。
四 根底の罅隙《かげき》
本書の物語が、ルイ・フィリップの治世の初期をおおう悲壮なる暗雲の深みのうちに、まさにはいり込まんとする時に当たって、まず事情を明らかにしておかなければならないし、この王に関して多少説明を加えておく必要がある。
ルイ・フィリップは、明らかに革命の真の目的とは異なったものであるが、しかしオルレアン公としての彼が自ら進んで手を出したこともない革命の自然の推移によって、自ら何ら直接の行動にいずることもなくごく穏やかに、王権を掌握したのであった。彼は王侯に生まれ、そして国王に選出されたと思っただけである。統治の委任権を彼は決して自ら自分に与えはしなかった。それを自ら取りはしなかった。ただ人から提出されてそれを受納したまでである。その提出は正義に反しないものでありその受納は義務に反しないものであると、確かに謬見《びゅうけん》ではあったが、とにかく確信したのである。そこに彼の善意的な所有がある。ところで、吾人をして真底から言わしむれば、ルイ・フィリップはその所有に誠心であり、民主政はその攻撃に誠心であるがゆえに、社会的闘争から発する非常な恐慌の責は、これを王に帰すべきものでもなく、また民主政に帰すべきものでもない。主義の衝突は自然要素の衝突にも似ている。大洋は水をまもり、旋風《つむじかぜ》は空気をまもる。王は王位をまもり、民主政は民衆をまもる。王政たる相対は、共和政たる絶対に対抗する。社会はその闘争の下に血を搾《しぼ》る。しかし今日、社会の苦悩となるものは、後日その福祉となるであろう。そしていずれにしても、闘争する者をここに難ずべき理由は一つもない。両派の一方は明らかに誤っているであろう。正義なるものは、ロデスの巨像のように、片足を共和政の中に入れ、片足を王政の中に入れて同時に両岸にまたがるものではない。正義は不可分のものであり、ただ一方にのみ立つべきものである。しかしながら、誤りを犯している方の人々も、その誤りはまじめなものである。ヴァンデの王党の者を盗賊だとは言えないように、盲人を罪ある者だとは言えない。ゆえにその恐るべき闘争は、これを事物必然の勢いだとしようではないか。その擾乱《じょうらん》がいかなるものであろうとも、人間の責任はそこに交じってはいない。
右の論を更に完説してみたい。
一八三〇年の政府はすぐに困難な生活に陥った。昨日生まれたばかりで今日ははや奮闘しなければならなかった。
ようやく腰をおろすとすぐに政府は、新しく据えられたばかりでまだ堅固でない七月(七月革命)の機関に対して、それを引き倒そうとする漠然《ばくぜん》たる牽引運動《けんいんうんどう》を四方に感じた。
翌日ははや反抗が生じた、否それはもう前日から生じていたかも知れない。
月を重ぬるに従って敵対は大となり、影のうちにあったものもあらわに姿を現わしてきた。
七月革命は、前に言ったとおり、フランス以外の諸国王からはあまり受け入れられず、またフランスにおいては種々の解釈を施された。
神はおのれの意志を事変のうちに現わして人間に伝える。しかしそれは神秘な言葉によって書かれた難解な文章である。人間は即座にその種々の翻訳をこしらえる。しかしそれらは皆、錯誤と脱落と矛盾とに満ちた速成の不正確なものばかりである。神の言葉を解する者ははなはだ少ない。最も鋭敏なる者、静平なる者、深き者らは、徐々に読み解いてその正文をもたらすが、その時はもう疾《と》くに仕事はなされてしまっている。公衆の巷《ちまた》には既に多くの翻訳ができている。その各翻訳から一党派が生まれ、各誤訳から一徒党が生まれている。そして各党派はおのれのみが唯一の正文を有していると信じ、各徒党はおのれのみが光明を有していると信じている。
しばしば権力それ自身も一つの徒党にすぎないことが多い。
革命のうちには流れにさかのぼって泳ぐ者がいる。それは旧党の者らである。
神の恵みによって世襲権に執着してる旧党の者らに言わすれば、革命は背反の権利から生ずるものであるから、人はまた革命に背反するの権利をも持っていることになる。しかしそれは誤りである。なぜなれば革命のうちにあっては、背反する者は人民ではなくして王だからである。革命はまさしく背反の反対である。あらゆる革命は皆順当なる遂行であるゆえに、そのうちには正法が含まっている。その正法は、時として似而非《えせ》革命家らによって汚名を負わせらるることもあるが、しかしたとい汚されようとも存続するものであり、たとい血にまみれようとも生きながらえるものである。革命は一事変より発生するものではなく、必然より生ずるものである。革命は虚を実に還《かえ》すことである。革命は存在せざるべからざるがゆえに存在する。
古い正統派ら([#ここから割り注]訳者注 ブールボン本家を奉ずるもの[#ここで割り注終わり])は、誤れる理論より生ずるあらゆる暴虐をもって一八三〇年の革命に襲いかかった。錯誤は秀でたる弾丸である。彼らはこの革命を打つに、その傷つけ得べき所を、その鎧《よろい》のない所を、その論理の欠けてる所を、賢くも選んだ。彼らは王位の点をもってこの革命を攻撃した。彼らは叫んだ。「革命よ、この王は何ゆえのものぞや?」それらの徒党は正しき狙《ねら》いを有する盲人である。
その叫びを、共和党らもまた同じく発する。しかし彼らから来ればそれも合理的である。正統派のうちにおいて盲目となるところのものは、民主派のうちにおいては明知となる。一八三〇年は民衆に破産をさした。憤怒した民主政はそれを非難したのである。
過去から来る攻撃と未来から来る攻撃との間にあって、七月の建物は奮闘した。一方では数世紀来の王政と争い、他方では永遠の正義と争う一瞬間を、それは現わしたものであった
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