がいていた。ただそれはガヴローシュが思っていたこととはまったく反対だった。打ち倒されたのはモンパルナスであって、上になってるのが老人だった。
 それらのことがガヴローシュの数歩先の所で起こったのだった。
 老人は一撃を受けたが、すぐに猛烈な一撃を報いたので、またたくまに襲撃者と被襲撃者とは位置をかえたのである。
「これはすごい爺《じい》さんだ、」とガヴローシュは考えた。
 そして彼は思わず手をたたいた。が拍手は何の用もなさなかった。ふたりの闘士は、互いに夢中になって何にも気づかず、息を交じえるばかりに相接して争っていたので、その音を耳にしなかった。
 するとたちまち静かになった。モンパルナスは身をもがくのをやめた。ガヴローシュはひとりで言った、「死んだのかしら。」
 老人はその間一語をも発せず、叫び声をも立てなかった。彼は立ち上がった。そしてガヴローシュはモンパルナスに彼がこういうのを聞いた。
「起きろ。」
 モンパルナスは起き上がった。しかし老人は彼をとらえていた。モンパルナスは面目なげなしかも憤激した態度をして、あたかも羊に捕えられた狼《おおかみ》のようだった。
 ガヴローシュは目と耳との力を合わして、のぞきまた聞いていた。夢中になっておもしろがっていた。
 彼は一生懸命にうかがっていただけのことがあった。暗闇《くらやみ》のために妙に悲痛に聞こえる次の対話をそっくり聞き取り得た。老人は尋ね、モンパルナスは答えた。
「お前は幾歳《いくつ》だ。」
「十九。」
「お前は強くて丈夫だ。なぜ働かないのか。」
「いやだからさ。」
「職業は何だ。」
「何にもしないことだ。」
「まじめに口をききなさい。いったい何をしてもらいたいのか。何になりたいのか。」
「泥坊にだ。」
 ちょっと言葉が途切れた。老人は深く考え込んだらしかった。彼はじっと立ったまま、モンパルナスをとらえていた。
 元気で敏捷《びんしょう》な若い悪漢は、時々、罠《わな》にかかった獣のようにあばれた。飛び上がり、足がらみにゆき、激しく手足をもがき、逃げ出そうとした。しかし老人はそれに気も止めないらしく、絶対的強力のおごそかな無関心さをもって、片手で相手の両腕をとらえていた。
 老人はしばらく考え込んでいたが、それからモンパルナスをじっと見つめながら、静かに声を上げて、その暗闇《くらやみ》の中で荘重な弁舌を振るい始めた。ガヴローシュはその一語をも聞きもらさなかった。
「おい、お前は怠惰なために一番苦しい生活にはいっている。お前は何にもしないのだと自分で言っている。けれども少しは働くように心掛けるがいい。お前は恐ろしい一つの機械を見たことがあるかね。輪転機というやつだ。用心しなければいけない。陰険な猛烈な機械だ。もし着物の裾《すそ》でもつかまれようものなら、身体まですっかり巻き込まれてしまう。この機械というのはほかでもない、なまけるということだ。まだいよいよとならないうちに踏み止まって、のがれだすがいい。そうでないともう万事だめだ。じきにその歯車の中に引き込まれてしまう。一度引き込まれたらもう出る望みはない。そこではただ疲れるばかりで、休むこともできない。一歩も仮借しない労役の鉄の手からつかまれるだけだ。お前は今、自分の手で生活しようと思っていない、仕事をし義務を果たそうと思っていない。普通の人のように暮らしてゆくことをいやがっている。だが別の道を歩くこともできるだろう。労働は天の法則だ。いやだといってそれを拒む者には、刑罰としてそれが落ちかかって来る。お前は労働者になることを好かないというが、それでは奴隷《どれい》となるばかりだ。労働は、一方でお前を許しても、他方でお前をとらえる。お前は労働の友だちになることを好まないで、かえってその奴隷になろうとしている。ああお前は、人間らしい正直な骨折りをきらって、罪人の額の汗を得ようとしている。他の人たちが歌をうたう時に、お前は息を切らすようになるんだ。下の方から遠くに、他の人たちが仕事をするのを見上げるようになるんだ。そしてその人たちは、お前の目には休んでるように見えてくるだろう。地を耕してる者や刈り入れをしてる者や、水夫や鍛冶屋《かじや》なども、天国の幸福な人々のように栄光に包まれてるとお前には思えてくるだろう。鍛冶屋《かじや》の仕事場もどんなにか光り輝くだろう。鋤《すき》をとり穂を束ねることもどんなにか幸福に見えるだろう。風のまにまに自由の帆を操《あやつ》る小舟もどんなにか楽しく見えるだろう。ところが怠惰なお前は、鶴嘴《つるはし》を使い、鎖を引きずり、車を引き、歩かなければならない。身体を縛ってる鎖を引きずって、地獄の中で荷物を引く獣と同じになるばかりだ。何にもしないことをお前は目的だとしていた。それなのに、ただの一週間も、ただの一日も、ただの一時間も、苦しい思いをしないではいられなくなる。何一つ持ち上げるにも苦痛を感ずるだろう。一刻の休みもなく絶えず筋肉はみりみりいうだろう。他の者には鳥の羽ぐらいなものも、お前には岩のように思えるだろう。ごくわけもないことも、大事業のようになるだろう。世の中は至る所恐ろしくなってくる。行ったりきたり息をしたりするのさえ、大変な仕事のようになってくる。肺をふくらますのさえ、百斤の重さを上げるような気がしてくる。ここを歩いたものかそれとも向こうを歩いたものか、そういうことまで一大事の問題となってくる。だれでも外に出ようと思えば、扉《とびら》を押し開くだけでもう外に出ている。ところがお前は、外に出ようとするには壁をつき破らなければならなくなる。往来に出るにも、普通の人はどうするかね。ただ階段をおりてゆくだけだ。ところがお前の方では、敷き布を裂き、それを一片ずつつなぎ合わして綱をこしらえ、それから窓をはい出し、その一筋の綱にすがって深い淵《ふち》の上にぶら下がるのだ。しかも夜か、暴風か、雨か、台風かの時だ。そして綱が短い時には、おりる道はただ飛びおりるほかはない。向こう見ずに無鉄砲に飛びおりるほかはない。それもかなりの高さからで、下には何があるかまったくわからない。またそうでなければ、身体を焦がすのもかまわずに、暖炉の煙筒の中をよじ上るか、あるいはおぼれるのもかまわずに、排尿口からはい出すのだ。そのほか、出入り口の穴を隠したり、日に二十遍も石を出したり入れたり、藁蒲団《わらぶとん》の中に漆喰《しっくい》の欠けをしまい込んだりするのは、言わずものことだ。錠前がある場合には、普通の市民なら錠前屋が作ってくれた鍵《かぎ》をポケットに持っている。ところがお前は、そこから出ようとする時には、精巧な恐ろしい道具を一つこしらえなければならない。大きな一スー銅貨を一つ取って、それを二枚に割る。何で割るのか、それも工夫しなければならない。それはお前の方の考えにあることだ。それから両方の表面には傷をつけないように注意して中をくりぬき、その縁には溝《みぞ》をつけ、二枚きっかり合わさって箱と蓋《ふた》とになるようにする。上と下とをよくはめ込めば、人にさとられることはない。お前を注意してる監視人には、それはただ一つの銅貨にすぎないが、お前には一つの箱となる。その箱の中に何を入れるかと言えば、一片の小さな鋼鉄の時計の撥条《ぜんまい》に歯をつけて鋸《のこぎり》にしたものだ。銅貨の中に隠した針くらいの長さのその鋸で、錠前の閂子《かんし》や、※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》の軸や、海老錠《えびじょう》の柄や、窓についてる鉄棒や、足についてる鉄枷《てつかせ》などを、切らなければならない。そして、その精巧な道具を作り、その驚くべき仕事をなし遂げ、その技術と器用と巧妙と忍耐との奇跡を果たした後、もしそれがお前のやったことだと知れたら、どういう報いがやってくるか。それはただ地牢《ちろう》ばかりだ。そういうのがお前の未来だ。怠惰といい楽しみというものは、何という絶壁だろう。何にもしないということは、痛むべき方針だ。わかるだろうね。社会の財産をあてにしてなまけて暮らすこと、何の役にも立たない生活を送ること、言いかえれば有害な生活をすること、それは人をまっ逆様に悲惨のどん底に投げ込んでしまう。社会の寄食者《いそうろう》になろうとする者こそ不幸だ、ついには有害な寄生虫になってしまう。ああお前は働くことを好まない、うまい酒を飲みうまいものを食い楽に寝ていたいという考えきり持っていない。だがそれでは結局、水を飲むようになり、黒パンをかじるようになり、手足は鎖につながれて夜通しその冷たさを身に感じながら、板の上にじかに寝るようになるだろう。その鎖を切って逃げ出す、なるほどそれもいい。藪《やぶ》の中を腹ばいになって潜んでゆき、森の中の獣のように草を食うだろう。そしてまたつかまるだろう。それからは、地牢《ちろう》の中で、壁につなぎとめられ、水を飲むにも壺《つぼ》を手探りにし、犬も食わないようなひどい黒パンをかじり、虫に食いちらされた豆を食べて、幾年も過ごすようになるだろう。窖《あなぐら》の草鞋虫《わらじむし》と同じだ。少しは自分の身体をいたわるがいい。かわいそうに、まだごく若いのに、乳母《うば》の乳房を離れて二十年とはならず、母親もまだ生きてるだろう。まあどうか私《わし》のいうことを聞くがよい。お前は上等の黒ラシャを着、漆塗《うるしぬ》りの舞踏靴《ぶとうぐつ》をはき、髪の毛を縮らし、いいにおいの油をぬり、下等な女を喜ばせ、きれいになりたがっている。だがしまいには、頭の毛は短く刈られ、赤い上衣を着せられ、木靴をはかせられるようになる。指に指輪をはめたがっても、首に鉄の輪をはめられるようになる。もし女に横目でもつかえば、棒でなぐられる。そしてそこにはいる時は二十歳くらいでも、出る時には五十歳にもなる。はいる時には年が若く、顔色は美しく、いきいきとして、目は輝き、歯はまっ白で、若々しいりっぱな髪の毛をしていても、出て来る時には、老衰し、腰は曲がり、皺《しわ》はより、歯はぬけ、恐ろしい姿になって、髪の毛もまっ白になっている。ああかわいそうにお前は誤った道を取っている。何にもしないということが、お前を悪い方へ導いたのだ。仕事のうちでも一番つらいことは、盗みの仕事である。私《わし》を信じて、なまけようなどという困難な仕事を始めなさんな。悪者になるのは、容易なことではない。正直な人間になる方がよほど楽だ。さあ行って、私の言ったことをよく考えてみなさい。ところで、何か用だったか。財布《さいふ》かね。それならここにある。」
 そして老人はモンパルナスから手を放し、彼の手に財布《さいふ》を握らしてやった。モンパルナスはちょっとその重さを手ではかってみて、それから自分で盗みでもしたように機械的な注意を配って、上衣の後ろのポケットにそれを静かにすべり込ました。
 以上のことを語り終え、以上のことをなした後、老人は彼に背中を向け、平気で散歩を続けた。
「まぬけめ!」とモンパルナスはつぶやいた。
 そもそもこの老人は何人《なんぴと》であったか。読者は既に察知したに違いない。
 モンパルナスはそれでもやはり呆然《ぼうぜん》として、老人が闇《やみ》の中に没し去るのをながめた。そういうふうに後《あと》見送って考え込んだことは、彼のためにごくいけなかった。
 老人が遠ざかるとともに、ガヴローシュが近寄ってきたのである。
 ガヴローシュはじろりと横目で、マブーフ老人がやはりまだベンチにすわってるのを見て取った。おそらく眠っていたのであろう。それで浮浪少年は藪《やぶ》の中から出てきて、じっと立ってるモンパルナスの後ろに、影の中をはい寄った。そういうふうにして彼は、モンパルナスから見られもせず音も聞かれないで、そのそばまでやってゆき、上等な黒ラシャの上衣の後ろのポケットにそっと手を差し入れ、財布をつかみ、手を引き出し、そしてまたはいながら、蛇《へび》が逃げるように闇《やみ》の中に姿を隠してしまった。モンパルナスは自分の方を用心するなどという理由がなかった上に
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