sし、何らフランスに反することをなさないで、大戦役から戻ってきたのであった。
 彼は自ら言った。自分の日もまた到来したのである。自分の時も、ついに鳴らされたのである。父のあとに自分もまたこれから、毅然《きぜん》として勇敢に大胆に、弾丸の前を行ききし、銃剣に胸を差し出し、おのれの血を流し、敵をさがし、死をさがさんとするのである。今度は自分が戦いをなし、戦場におり立たんとするのである。しかも今、その戦場は街路であり、なさんとする戦いは内乱なのである!
 彼は内乱が自分の前に深淵《しんえん》のごとく口を開いているのを見、そこに陥ってゆく自身を顧みた。
 その時彼は身を震わした。
 彼は祖父がある古物商に売り払ってしまった非常に惜しい父の剣のことを思った。彼は自ら言った。しかしその勇ましい潔い剣が、暗黒のうちにいら立って自分の所をのがれ去ってしまったのは、かえってよかったのである。そのように逃げ去ってしまったのも、賢くて未来を予見したからである。暴動を、溝の戦いを、舗石《しきいし》の戦いを、窖《あなぐら》の風窓からの銃火を、背後から与え合う剣撃を、予感したからである。マレンゴーやフリートラントの戦いを経て、シャンヴルリー街に行くことを欲しなかったからである。父とともにあれだけのことをなした後、その子の自分とともになすべきことを欲しなかったからである! 彼はまた自ら言った。もしその剣が今手もとにあったならば、もしその剣を死せる父の枕辺《まくらべ》から手に取って、街路におけるフランス人同志の夜戦のために、あえて持ち出していたならば、確かにそれは自分の手を焼きつくし、天使の剣のごとく、自分の前に炎を発し始めたであろう! また彼は自ら言った。その剣が今手もとになく行方《ゆくえ》知れずになったのは、仕合わせなことである。至当なことであり正当なことである。祖父こそかえって、父の光栄を真に守ってくれた人である。大佐の剣は、今日祖国の横腹を刳《えぐ》るよりも、競売に付せられ、古物商に売られ、鉄屑《てつくづ》の中に投げ込まれる方が、かえってよいでははないか。
 そしてマリユスは苦《にが》い涙を流し始めた。
 それは実にたまらないことであった。しかしどうしたらいいのか。コゼットなしに生きることは、彼にはとうていできなかった。彼女が出発した今となっては、彼はもう死ぬよりほかはなかったのである。自分は死ぬであろうと彼女に明言したではないか。彼女はそれを知りつつ出発した。それはマリユスが死ぬのを好んだからに違いない。そしてまた、彼女がもう彼を愛していないことは明らかだった。なぜならば、彼の住所を知りながら、ことわりもなく、一言の言葉もなく、一つの手紙も贈らず、そのまま出発したからである。今や、生も何の役に立つか、また何ゆえの生であるか! しかもここまでやってきながらまた後ろにさがろうとするのか、危険に近づきながら逃げようとするのか、防寨《ぼうさい》の中をのぞき込みながら身を隠そうとするのか。「要するに、もうそういうことはたくさんだ、はっきり見た、それで十分だ、単に内乱ではないか、足を返すべきである、」と言いながら、震えてのがれ隠れようとするのか。自分を待ってる友人らを見捨てようとするのか。彼らはおそらく自分の助力をも必要としてるだろう、一握りの人数をもって多数の軍隊に対抗せんとしているだろう! 愛にも、友情にも、誓いにも、すべてに同時に裏切ろうとするのか。自分の卑怯《ひきょう》さを愛国心の美名で装おうとするのか! 否それはでき難いことであった。そしてもし父の霊がそこに影の中にいて、彼が退こうとするのを見たならば、彼の腰に剣の平打ちを食わして叫んだであろう、「進み行け、卑怯者めが!」
 種々の考えが入り乱れて、彼は頭をたれていた。
 しかるに突然、彼はまた頭を上げた。一種の燦然《さんぜん》たる信念が彼の脳裏に浮かんだのである。墳墓の間近においては特に思想の明確をきたすものである。死のそばにあっては真の目が開けてくるものである。まさに参加せんとするその行動の幻が彼に現われた。それはもはや悲しむべきものではなく、壮大なものであった。市街戦は、ある内心の働きを受けて、彼の思想の目の前ににわかに姿を変えた。夢想のあらゆる疑問の群れは、騒然として彼の頭に浮かんできたが、彼は少しもそれに乱されはしなかった。彼はそれに一々答弁を与えた。
 およそ、父は何ゆえに憤ることがあろうぞ。反乱も貴《とうと》い義務とまで高まりゆく場合がないであろうか。目前の戦いに身を投じても、ポンメルシー大佐の子として恥ずべき点がどこにあろう。もとよりそれはモンミライュやシャンポーベール([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンがプロシャ及びロシヤの軍を敗りし所[#ここで割り注終わり])ではない、それは他
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