ナありながら、だれも逃げることを思わなかった。
 必ずや翌日までにはすべてが決定し、勝利はいずれかの手に帰し、反乱は革命となるかあるいは暴挙に終わるかのほかはなかった。政府も一揆《いっき》も共にそれを了解し、一介の市民までもそれを感じていた。それゆえ、すべてが決せんとするその一郭の見通すべからざる暗黒のうちには、心痛の念が漂っていた。またそれゆえ、まさに覆滅が生ぜんとするこの沈黙の周囲には、いっそうの懸念が漂っていた。そしてそこに聞こゆるものは、ただ一つの響き、瀕死《ひんし》の喘《あえ》ぎに似た痛ましい響き、呪詛《じゅそ》の声に似た恐ろしい響き、すなわちサン・メーリーの警鐘の音のみだった。暗黒のうちに慟哭《どうこく》する狂乱し絶望せるその鐘の響きこそ、世に最も人を慄然《りつぜん》たらしむるものであった。
 しばしば見らるるとおり、今や自然も人間がまさになさんとすることと調子を合わしてるようだった。その痛ましい両者の調和を何者も乱すものはなかった。星は姿を隠し、重々しい雲は陰鬱《いんうつ》な層をなして空の四方をおおっていた。死のごときその一郭の街路の上には暗い空がかぶさっていて、あたかもその広い墳墓の上に広大な喪布をひろげたようだった。
 まだまったく政治的のみなる戦いが、既に多くの革命の事変を見たその一郭のうちに、しだいに準備されつつある間に、青春と秘密結社と学校とが主義の名において、また中流市民階級が利害の名において、互いに衝突し駆逐し争闘せんとして接近し合ってる間に、各人が足を早めて、危機の最後の決定的瞬間を喚《よ》び起こしてる間に、一方、その致命的なる一郭の外遠くに、幸福|栄耀《えいよう》なるパリーの光耀の下に隠れてるその古いみじめなるパリーの底知れぬ洞窟《どうくつ》の深みに、民衆の陰惨なる声の重々しくうなるのが聞こえていた。
 それこそ恐るべきしかも聖なる声であって、獣の咆哮《ほうこう》と神の言葉とから成り、弱者をおびえさし賢者を戒め、獅子《しし》の声のごとく地から来るとともに雷電のごとく天から来るものであった。

     三 最後の一端

 マリユスは市場町に達していた。
 そこは近傍の街路よりも、いっそう静かで暗くひっそりしていた。あたかも氷のごとき墳墓の静けさが、地からいでて空の下にひろがってるかと思われた。
 けれども一条の赤い明るみが、シャンヴルリー街のサン・テュスターシュの方をふさいでる人家の高い屋根を、そのまっ暗な奥に浮き出さしていた。それはコラント亭の防寨《ぼうさい》の中に燃えてる炬火《たいまつ》の反映だった。マリユスはその赤い光の方へ進んでいった。そして野菜市場までゆくと、プレーシュール街の暗い入り口が見えた。彼はそこにはいって行った。向こうの端に立っていた暴徒の見張りは、彼の姿を見つけなかった。彼は今まで、さがし求めていたもののすぐそばにきたことを感じ、爪先《つまさき》で歩き出した。かくてモンデトゥール小路の短い街路の曲がり角《かど》まで達した。読者の記憶するとおり、それはアンジョーラが開いて置いた外部との唯一の交通路であった。最後の人家の角《かど》から左へ頭を出して、彼はモンデトゥール街の中をのぞき込んだ。
 彼自身をも包む広い闇《やみ》を投じてるシャンヴルリー街とその小路との暗い角から少し先に、舗石《しきいし》の上のかすかな明るみと居酒屋の小部分と、その向こうには一種変な形の壁の中にちらついてる豆ランプと、銃を膝《ひざ》にのせてうずくまってる数名の男とを、彼は認めた。すべてそれらは彼から十間ばかりの所にあった。それは防寨《ぼうさい》の内部だった。
 小路の右手に立ち並んだ人家は、居酒屋の他の部屋と、大きい方の防寨と赤旗とを、彼の目からさえぎっていた。
 マリユスにはもはや一歩残ってるのみだった。
 その時この不幸な青年は、ある標石の上に腰をおろし、腕を組み、そして父のことを思った。
 彼は自分の父である勇壮なポンメルシー大佐のことを思った。大佐こそは、いかにも高邁《こうまい》な兵士であって、共和政府の下にあってはフランスの国境を守り、皇帝の下にあってはアジアの境にまで進みゆき、ゼノア、アレキサンドリア、ミラノ、トリノ、マドリッド、ウインナ、ドレスデン、ベルリン、モスコー、などの都市を見、ヨーロッパのあらゆる優勝戦場に、マリユス自身の血管の中にある同じ血潮の数滴を残し、規律と指揮との中に年齢にもまして白髪となり、常に剣帯をしめ、肩章は胸の上にたれ、帽章は火薬に黒ずみ、額には軍帽のために筋がつき、廠舎《しょうしゃ》に陣営に露営にまた野戦病院に夜を明かし、かくて二十年の出征の後に、頬《ほお》には傷痕《きずあと》を留め、顔はほほえみ、素朴で、平静で、崇高で、小児のごとく純潔で、フランスのためにすべてを
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