B」
それから彼は叫び出した。
「ぷー、悪い牡蠣《かき》をのみ込んじゃった。おお気持ちが悪い。牡蠣は腐ってるし、女中は醜いときてる。人間がいやになっちまう。僕はさっきリシェリユー街で大きな公衆図書館の前を通った。書庫と言わるる牡蠣殻のはきだめは、考えても胸糞《むなくそ》が悪くなる。山のようにつんだ紙、インキ、なぐり書きだ。だれかがそんなものを書いたんだ。人間はプリューム([#ここから割り注]羽毛――ペン[#ここで割り注終わり])のない二本足だと言ったばか者がいる。それからまた僕は、知り合いのきれいな娘に出会った。春のように美しい、フロレアル([#ここから割り注]花娘[#ここで割り注終わり])とも言える奴《やつ》で、輝いた、有頂天な、幸福な、まるで天使のようだが、みじめな奴さ、痘瘡面《あばたづら》のたまらない銀行家が昨日その娘に思いをかけたんだ。実に女という奴は、金盗人と遊冶郎とにばかり目をつけてやがる。牝猫《めねこ》は鼠《ねずみ》と小鳥とを追っかけるもんだ。その娘っ児も、二カ月前まではおとなしく屋根裏に住んで、胸衣の穴に銅の小さな環《わ》をつけていたんだぜ。そして針仕事をし、たたみ寝台に寝、一鉢《ひとはち》の花のそばにいて、満足していたんだ。それが急に銀行家夫人となり上がった。その変化が昨夜《ゆうべ》起こったんだ。今朝《けさ》僕は、すっかり得意げなその犠牲者に出会った。ことにたまらないのは、奴《やっこ》さん昨日と同じように今日もきれいだった。銀行家の面影がまだ少しもその顔の上に映っていなかった。薔薇《ばら》の花が婦人よりすぐれてる点は、あるいは劣ってる点は、虫に食われた跡がはっきり見えるという所にあるんだ。ああ地上にはもはや徳操は存しない。僕は、愛の象徴たる天人花、戦いの象徴たる月桂樹《げっけいじゅ》、平和の象徴たる愚かな橄欖《オリーブ》、種子でアダムの喉《のど》をふさごうとした林檎《りんご》、裳衣の先祖たる無花果《いちじく》、などを証人としてそれを主張するんだ。権利についても、いったい君らは権利の何たるやを知ってるか。ゴール人らはクルジオム([#ここから割り注]訳者注 エトルリアの昔の都[#ここで割り注終わり])を渇望し、ローマはクルジオムを保護して、それが彼らに何の害を与えたかを尋ねる。それに対して、ブレンヌス([#ここから割り注]訳者注 紀元前四世紀にローマを略奪せしゴールの首長[#ここで割り注終わり])は答える。『しからばアルバは、フィデネは、エキー人やヴォルスキー人やサビニ人ら([#ここから割り注]訳者注 皆ローマが征服せし土地または人種[#ここで割り注終わり])は、汝らに何の害をなしたか。彼らは汝らの隣人ではなかったか。クルジオム人らはわれらの隣人である。われらは隣人をただ汝らがなしたように取り扱うまでである。汝らはアルバを奪った、われらはクルジオムを奪うのだ。』するとローマは言う。『汝らはクルジオムを奪ってはいけない。』けれどブレンヌスはローマを奪った。それから叫んだ。『みじめなる敗北者ども[#「みじめなる敗北者ども」に傍点]!』([#ここから割り注]訳者注 ゴール人らにローマ撤退の代わりとして支払う黄金を量る秤が不正なものであることを、ローマ人らが抗議した時、彼がその剣を秤の中に投じて叫んだ言葉[#ここで割り注終わり])それがすなわち権利なのだ。ああこの世には、いかに多くの猛獣がいることか、いかに多くの鷲《わし》が、ああいかに多くの鷲がいることか! 僕は慄然《りつぜん》たらざるを得ない。」
彼は杯をジョリーに差し出して酒をつがせ、それを飲み干し、それからまた、だれも彼自身もそれと意識しないその一杯の葡萄酒《ぶどうしゅ》にほとんど中断さるることなく、しゃべり続けた。
「ローマを奪ったブレンヌスは一つの鷲である。小娘を奪った銀行家は一つの鷲である。いずれも共に恥を知らない。ゆえにもはや何物をも信ずるなかれだ。ただ一つの現実は酒あるのみ。いかなる意見をいだこうとも、ユリー州のごとくやせたる鶏に味方し、あるいはグラリス州のごとく肥《ふと》ったる鶏に味方しようとも([#ここから割り注]訳者注 いかなる物に対していかなる態度を取ろうとも[#ここで割り注終わり])、それが何の関係があるか、ただ飲むべしである。君らは僕に語るに、大通りのこと、葬式の行列のこと、その他をもってする。そして再び革命が起こりかけてるというのか。僕は神の無策に驚くのほかはない。神は絶えず事変の車軸に油をぬりなおさなければならなくなるんだ。ねばり着いて少しも先へ進まないからだ。革命よ急げ。神はいつも下等な差し油で手をまっ黒によごしているんだ。しかし僕が神の地位にあったら、すべてをもっと簡単にやってのける。僕は機械の撥条《ばね》を絶えず巻きはしない、一
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