閧オめるだけで満足することが多かった。そういう時には、三十歩ばかり向こうに雷が落ちても、彼らは気づかなかったかも知れない。それほど彼らは互いに夢想にふけり、互いに深く夢想のうちに引き入れ合っていた。
澄み切った純潔さ。純白な時間、ほとんど差別ない時間。この種の愛は、百合《ゆり》の花弁を集め鳩《はと》の羽を集めたものである。
庭の全部が彼らと街路とをへだてていた。マリユスははいってきたり出て行ったりするたびごとに、鉄門の棒を注意してよく元になおし、動かした跡が少しも見えないようにした。
彼はたいてい十二時ごろ帰ってゆき、クールフェーラックのもとに戻った。クールフェーラックはバオレルに言った。
「おい君、マリユスはこの頃夜の一時ごろ帰ってくるんだぜ。」
バオレルは答えた。
「驚くには及ばないさ。謹厳な者にはどうせ無鉄砲なことがある。」
時々、クールフェーラックは腕を組み、まじめなふうをして、マリユスに言った。
「君は無茶になってるね。」
実際家であるクールフェーラックは、マリユスの上に漂っている目に見えぬ楽園の反映を、よいことには思わなかった。彼は秘めたる恋愛などというものにはなれていなかった。そしてそれをもどかしがって、時々マリユスを現実に引き戻そうとつとめた。
ある朝、彼はマリユスに注意を与えた。
「おい、君のこの頃の様子を見ると、まるで月の世界にでもふみ込んでるようだぜ、夢の王国、幻の国、石鹸玉《しゃぼんだま》の都にでもね。いったい女の名は何というんだ?」
しかし何と言っても、マリユスに「口を開かせる」ことはできなかった。たとい指の爪《つめ》をぬきとろうとも、コゼット[#「コゼット」に傍点]という得も言えぬ名前を組み立ててる神聖な文字の一つをも口外させることはできなかったろう。真の愛は、曙《あけぼの》のごとく光り輝き墳墓のごとく黙々たるものである。クールフェーラックもマリユスの変化のうちにある光輝ある沈黙があることは認めていた。
五月の楽しい一月《ひとつき》の間、マリユスとコゼットとは次のような限りない幸福を味わった。
あとでいっそうへだてない楽しい言葉を言いかわさんがためにのみ、言葉争いをしたりよそよそしい言葉使いをしたりすること。
最も関係の少ない人々のことを、長くごく細かに語り合うこと。これはまた、愛と呼ばるる楽しい歌劇では筋がごくつまらないものであるという証拠である。
マリユスにとっては、コゼットが化粧品の話をするのに耳を傾けること。
コゼットにとっては、マリユスが政治を語るのに耳を傾けること。
膝《ひざ》と膝とを接してすわりながら、バビローヌ街を行く馬車の音を聞くこと。
大空のうちに同じ星をながめ、または草の中に同じ螢《ほたる》をながめること。
いっしょに黙っていること。これは語るよりも更に楽しいことである。
その他種々。
そのうちに種々複雑なことが到来してきた。
ある晩、マリユスは会合の場所に行くためにアンヴァリード大通りを通っていた。彼はいつも首垂《うなだ》れて歩くのが癖であった。彼がプリューメ街の角《かど》を曲がろうとした時、すぐそばに声がした。
「今晩は、マリユスさん。」
頭を上げると、それはエポニーヌであった。
その遭遇は彼に妙な気持ちを与えた。その娘からプリューメ街に連れてこられた日以来、彼は一度も彼女のことを考えたことがなく、姿を見たこともなく、まったく頭の外に追い出してしまっていた。彼女に対して彼はただ感謝のほかはなく、現在の幸福は彼女に負うところのものであった。けれども彼は、今彼女に会って多少の困惑を感じた。
情熱は幸福で純潔である時人を完全な状態に導く、と思うのは誤りである。前に述べたとおり、それは単に人を忘却の状態に導くのみである。そういう境地にある時人は、悪くなることを忘るるがまた善《よ》くなることをも忘るる。感謝や義務など根本の大事な記憶さえ皆消え失せてしまう。別の時であったら、エポニーヌに対するマリユスの態度も違っていたであろう。しかし今コゼットのことで心がいっぱいになっていた彼は、このエポニーヌはエポニーヌ・テナルディエという名前であることをもはっきり頭に浮かべなかった。そのテナルディエという名前こそ、父の遺言のうちに書かれていたものであり、数カ月以前であったらそれに対して身をささげることをも辞しなかったであろう。われわれはマリユスのありのままを描いているのである。今や父の姿さえも彼の心のうちでは愛の輝きの下に多少薄らいでいた。
彼は少し当惑したように答えた。
「ああ、あなたですか、エポニーヌ。」
「なぜあなたなんていうの。あたし何か悪いことでもして?」
「いいえ。」と彼は答えた。
確かに彼は何も彼女に含むところはなかった。そんなことはま
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