ス学的形状がないとおり、人の心のうちには絶対的な論理の連絡はないものである。コゼットとマリユスとにとっては、もはやマリユスとコゼットとのほかは何物も存在しなかった。周囲の万物はすべて穴の中に没してしまっていた。彼らは光り輝く黄金の瞬間に生きていた。前には何物もなく、後ろにも何物もなかった。コゼットに父親があることをもマリユスはほとんど考えなかった。彼の頭の中では、眩惑《げんわく》のためにすべてが消されてしまった。それではこのふたりは何のことを語っていたか。それは前に述べたとおり、花のこと、燕《つばめ》のこと、沈みゆく太陽のこと、上り行く月のこと、そういう大事なことばかりだった。彼らはすべてを除いたすべてのことを語り合った。恋人らのすべては無にすぎない。そして、父親のこと、現実のこと、あの陋屋《ろうおく》、あの盗賊ら、あの事変、それらが何の役に立つか。またその悪夢が実際起こったことであるとどうして確言できよう。彼らはふたりであり、互いに欽慕《きんぼ》し合っており、ただそれだけのことにすぎなかった。その他のことはすべて存在しなかった。そのように背後に地獄が消えゆくことは、おそらく天国に近づくの兆であろう。悪魔の姿を見たか、悪魔が実際にいたか、それに戦慄《せんりつ》したか、それに苦しんだか、もう何も覚えてはいない。薔薇色《ばらいろ》の雲が上にはたなびいているのである。
 かくてふたりの者は、空高く、真実とも思えないもののうちに、日を送っていた。地中でもなく、中天でもなく、人間と天使との間、泥土の上、精気の下、雲の中であった。ほとんど骨と肉とを失い、頭の頂から足の先までただ魂と歓喜とのみであった。地上を歩くにははやあまりに崇高となり、蒼空《あおぞら》に消え去るにはなおあまりに人間の性を帯び、震盪《しんとう》を待つ原子のように中間にかかり、見たところ運命の束縛を脱し、昨日と今日と明日との制扼《せいやく》を知らず、感激し、眩暈《げんうん》し、浮揚し、時には無限の境に飛び行かんとするほど軽く、ほとんど永遠の飛翔《ひしょう》を試みんとしてるがようであった。
 彼らは、かかる守唄《もりうた》に揺られながら目を開いたまま眠っていた。理想によって圧倒されたる現実の光輝ある昏睡《こんすい》であった。
 時とすると、コゼットの美しさにもかかわらず、マリユスはその前に目をふさいだ。目をふさぐのは魂をながむる最上の方法である。
 マリユスもコゼットも、かくしてついにはどこに導かれんとするかを自ら尋ねなかった。彼らは既に到達したものと自ら思っていた。愛が人をどこかに導かんことを望むのは、人間の愚かなる願いである。

     三 影のはじまり

 ジャン・ヴァルジャンの方では、何にも気づいていなかった。
 コゼットはマリユスほど夢想的ではなくて、いつも快活だった。ジャン・ヴァルジャンを幸福ならしむるにはそれで十分だった。コゼットがいだいていた考え、忘れる暇のない燃ゆる思い、心を満たしてるマリユスの姿、それらも、彼女の美しい潔白なほほえめる額の比類ない純潔さを少しも減じはしなかった。彼女の年齢はちょうど、天使が百合《ゆり》の花を持つような具合に処女が愛を持つ頃だった。それゆえジャン・ヴァルジャンは安心しきっていた。その上、ふたりの恋人が心を合わしさえすれば、常に何事も都合よくゆくものである。ふたりの愛を乱さんとする第三者は、恋人らがいつもするような少しの注意をさえすれば、まったく何事も知らずにいるものである。コゼットは少しもジャン・ヴァルジャンの意に逆らいはしなかった。散歩にゆこうと言わるれば、「ええお父様」と彼女は答えた。家にいようと言わるれば、「そうしましょう」と彼女は答えた。晩にいっしょにいられると、彼女は喜ばしい顔をした。彼女はいつも晩の十時に自分の室《へや》に帰ってゆくので、そういう時マリユスは十時すぎでなければ庭にやってこなかった。その時はいつも、コゼットが踏み段の戸を開く音が街路から聞かれるのだった。昼間マリユスがだれからも姿を見られなかったのは、言うまでもないことである。ジャン・ヴァルジャンはもうマリユスのことを頭にも浮かべなかった。ただある朝一度、彼はコゼットにこう言った。「おや、お前の背中に白いものがついているよ。」その前夜マリユスは、夢中になってコゼットを壁の方に押しつけたのだった。
 トゥーサン婆さんは、いつも仕事がすめば寝ることしか考えていなく、早くから寝てしまったので、ジャン・ヴァルジャンと同様何事も知らなかった。
 マリユスは決して家の中にはいらなかった。コゼットとふたりでいる時、街路から見られもしないように、踏み段のそばの奥まった所に彼らは隠れて、そこに腰をおろし、話をする代わりに、ただ樹木の枝をながめながら、互いに何度も手を握
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