Aローマ、などの巨船が沈みゆくのを見ては、我々は自ら一種の戦慄《せんりつ》を禁じ得ない。けれども、そこには暗黒があるが、ここには光明がある。我々は古代諸文明の病気を知らないが、現代文明の疾患を知っている。我々はこの文明の随所を光に照らしてながむるの権利を有している。我々はその美点を観賞し、その醜点を裸にする。苦痛があるところには消息子《さぐり》を入れる。そして一度病苦が明らかになれば、その原因を研究するうちについに薬剤が発見さるる。二十世紀間の長い年月に作られたわが文明は、その怪物であり又その奇跡である。救うに価するものである。ついには救われるであろう。これを支持するは既に大なる業《わざ》であり、これに光明を与うるは更に大なる業である。現代の社会哲学のあらゆる努力は、皆この目的に集中されなければならない。今日の思想家は一つの大なる義務を持っている、すなわち文明の健康を診察することである。
くり返していう。この診察は人の勇気を鞭撻《べんたつ》するものである。そして、本書の悲痛な一編の劇にはさんだいかめしい幕間物たるこれらの数ページを、我々はこの鞭撻の力説によって終えたいと思う。社会の定命の下にも人類の不滅が感ぜられる。噴火口の傷口や硫気口の湿疹《しっしん》などを所々に有するとも、潰瘍《かいよう》して膿液《のうえき》をほとばしらす火山があろうとも、地球は死滅しない。民衆の病気も人間を殺しはしない。
それでもなお、社会の臨床治療に臨む者は一時頭を振るであろう。最も強く最も愛深く最も合理的なる者らも、一時勇気を失うであろう。
未来は果たして到達するであろうか? かくも多くの恐るべき影を見る時、ほとんどそう自ら問わざるを得ないのである。多くの利己的な者らと悲惨な者らとに、痛ましくも当面してるのである。利己的な者らのうちにあるのは、偏見、高価な教育の暗黒、酩酊《めいてい》によってますます高まる欲望、人を聾者《ろうしゃ》にし愚昧《ぐまい》にする繁栄、ある者らにあっては苦しめる人々に背中を向けるほどの、苦痛の恐れ、頑迷《がんめい》な満足、魂の口をふさぐほどふくれ上がってる自我。また悲惨な者らのうちにあるのは、渇望、羨望《せんぼう》、楽しめる人々に対する憎悪《ぞうお》、飽満に対して人の獣性が有するあこがれ、靄《もや》に立ちこめられてる心、悲哀、欠乏、薄命、汚れたるただの無知。
かくてもなお続けて天の方へ目をあげなければならないか? そこに見える輝いたる一点は、消えうするもののなごりであろうか? 深みのうちに取り残され、見分け難く小さく孤立して、周囲に重畳|堆積《たいせき》してる大なる暗雲におびやかされながら輝いてる理想こそ、見るも恐るべきものである。しかしながらそれは、黒雲にのまれんとする星と等しく、特に危険に陥っているものではない。
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第八編 歓喜と憂苦
一 充満せる光
読者のすでに了解するとおり、エポニーヌはマニョンに言いつけられてプリューメ街に行き、そこに住んでる娘を鉄門越しに見て取って、まず盗賊どもをその家から他にそらし、次に、マリユスを連れてきたのであった。そしてマリユスは、その鉄門の前に恍惚《こうこつ》たる数日を過ごした後、鉄が磁石に引かれるような力に導かれ、恋人が愛する女の家に引きつけられるような力に導かれて、ロメオがジュリエットの庭にはいったように([#ここから割り注]訳者注 セークスピヤの戯曲ロメオとジュリエット[#ここで割り注終わり])ついにコゼットの庭のうちにはいり込んでしまったのである。しかもそうすることは、ロメオの時よりも彼の時の方が容易であった。ロメオは壁を乗り越えなければならなかったが、マリユスの方は、老人の歯のように錆《さび》くれた穴の中に揺らいでる古い鉄棒の一本を、少しばかり押し開くだけでよかった。マリユスはやせていて、わけなくそこからはいることができた。
街路にはかつて人もいなかったし、その上マリユスは夜分にしか庭にはいって行かなかったので、人に見られるような危険はなかった。
一つの脣《くち》づけが二つの魂を結び合わしたあの聖《きよ》い祝福された夜以来、マリユスは毎晩そこにやってきた。もしその頃コゼットが、多少不謹慎なみだらな男に恋したのであったら、彼女は身を滅ぼしたであろう。なぜなら世にはすべてに身を任せる大まかな性質の者がいるもので、コゼットはそのひとりだったのである。女の寛容の一つは、物に従うところにある。絶対の高みにある恋のうちには、一種の潔い貞節の盲目さがはいっている。世の高潔な魂の女らがいかに多くの危険を冒すことか! 彼女らが心を与えるのに男はしばしばその肉体をのみ取る。心は彼女らのもとに残って、彼女らは戦慄しながらそれをやみの中にながめる。恋は
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