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 精神と道徳との生長は、物質的改良に劣らず必要なものである。知ることは一つの糧《かて》であり、考えることは第一の要件であり、真理は小麦のごとき栄養物である。理性は学問と知恵とを断食する時やせてゆく。胃袋の点より考えても、食を取らない精神はあわれむべきである。パンがなくて死の苦しみをする身体よりも一層悲痛なものが何かあるとすれば、それはおそらく光明に飢えて死ぬる魂であろう。
 進歩はすべてその解決を目ざしている。他日人は驚かされるであろう。人類は上に上りゆくものであるから、深い地層も自然に破滅地帯を脱するであろう。悲惨の掃蕩《そうとう》は、単に地面を高めることによってなされるであろう。
 かかる祝福されたる解決こそ、これを疑うは誤りである。過去はまさしく現代においてはなはだ強力になっている。過去はよみがえっている。かかる死骸《しがい》の更生こそ意外なことである。今やそれは立ち上がって進み来る。勝利者のごときありさまをしている。その死人が征服者となっている。その軍勢たる迷信を率い、その剣たる専制制を振りかざし、その軍旗たる無知を押し立てて、彼はやって来る。しばらくの間に彼はもう十度もの戦争に勝利を得ている。彼は進みきたり、威嚇し、嘲笑し、我々の門口に立っている。しかし我々は絶望してはいけない。ハンニバルの駐《とど》まる野は売るべしである。
 信ずるところある我々は、何を恐るべきことがあるか。
 河水に逆行がないごとく、もはや思想にも逆行はない。
 しかし未来を欲しない者には一考を勧めたい。進歩に向かって否といいながら彼らがしりぞけるのは、未来ではなくて彼ら自身をである。彼らは自ら自分に暗い病気を与える。彼らは自分に過去を植えつける。「明日」を拒む唯一の方法は自ら死ぬることである。
 しかるにいかなる死も、身体の死はなるべく遅からんこと、魂の死は、永久にきたらざらんこと、それが我々の望むところである。
 まさしく、謎《なぞ》はその種を明かし、スフィンクスは口を開き、問題は解決されるであろう。十八世紀に草案された「民衆」は十九世紀によって完成さるるであろう。これを疑う者は痴人である。万人の安寧が近き未来に到来することは、天意的な必然の数である。
 一斉に上に向かわんとする広大なる力は、人類の各事実を整理して、一定の時間を経れば、合理的なる状態、すなわち平衡なる状態に、すなわち公正なる状態に、すべてを導くであろう。地と天とから成る一つの力は、人類からいでて人類を統治するであろう。その力こそ奇跡を行なう者である。驚嘆すべき大団円も、異常なる変転と同じく彼にとっては容易である。人間より来る学問と神より来る事変との助けによって、俗人には解決不可能と思わるる矛盾多い問題にも、彼は余り驚かない。彼は巧みに、各事実を対照さして一つの教訓を引き出すとともに、各思想を対照さして一つの解決を引き出す。そして人は、進歩のこの不可思議なる力からすべてを期待することができる。この力は他日、墳墓の奥底において東方と西欧とを対面させ、大ピラミッドの内部においてイマン([#ここから割り注]回教長老[#ここで割り注終わり])とボナパルトを対話させるであろう。
 まずそれまでは、人の精神の壮大なる前進のうちには、何らの休止もなく、躊躇《ちゅうちょ》もなく、足を止める暇もない。社会哲学は本質的に平和の学問である。拮抗《きっこう》を研究することによって憤怒を解くことが、その目的であり、またその結果であらねばならない。それは調査し穿鑿《せんさく》し解剖し、次にまた再び組み立てる。すべてから憎悪《ぞうお》を除去しながら、還元の道をたどってゆく。
 人間の上に吹きすさむ風のために一社会が覆没することは、しばしば見らるるところである。民衆や帝国の難破は史上に数多ある。颶風《ぐふう》という未知の者が一度過ぎる時、風俗も法律も宗教もすべては吹き去られる。インド、カルデア、ペルシャ、アッシリア、エジプトなどの文明はすべて、相次いで消滅した。なぜであるか。我々はそれを知らない。それらの覆滅の原因は何であるか。我々はそれを知らない。それらの社会はあるいは救われることができるものであったであろうか。それら自身に過失があったのであろうか。破滅を招くべきある致命的な不徳のうちに固執したのであろうか。国民や民族のそれら恐ろしい死滅のうちにはいくばくの自殺が含まっていたであろうか。それは答えのできない問題である。それらの処刑された文明はやみにおおわれている。それらは水底に沈んだがゆえに水におぼれたのである。これ以上を我々は何もいうことができない。そして、過去と呼ばるる大海の底に、世紀と呼ばるる大波のかなたに、すべての暗黒の口から出る恐るべき息吹《いぶき》のために、バビロン、ニニベ、タルス、テーベ
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