B」
 ジルノルマン老人は、あきれ返り、口を開き、腕を差し出し、立ち上がろうとした。しかし彼に一言を発するすきも与えないで、扉は再び閉ざされ、マリユスの姿は消えた。
 老人はしばらく身動きもせず、雷に打たれたようになり、口をきくことも息をすることもできず、あたかも拳固《げんこ》で喉《のど》をしめつけられてるがようだった。やがて彼は肱掛《ひじか》け椅子《いす》から身をふりもぎ、九十一歳の老年に能う限りの早さで扉の所に駆け寄り、扉を開き、そして叫んだ。
「だれか、だれかいないか!」
 娘がやってき、次に召し使いどもがやってきた。彼は哀れな嗄《か》れ声で言った。
「あいつを追っかけてくれ。捕えてくれ。わしはあいつに何をしたんだろう。あれは狂人《きちがい》だ。逃げていった。ああ、神よ! ああ、神よ! こんどはもう帰ってきはすまい!」
 彼は街路が見える窓の所へ行き、うち震える老いた手でそれを開き、身体を半分以上も外に乗り出し、後ろからバスクとニコレットに引き止められながら叫んだ。
「マリユス! マリユス! マリユス! マリユス!」
 しかしマリユスにはもうその声が聞こえなかった。その時彼は既にサン・ルイ街の角《かど》を曲がっていた。
 八十の坂をとくに越した老人は、心痛の表情をして二三度両手を顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の所に持ってゆき、よろめきながらあとに退り、肱掛《ひじか》け椅子《いす》の上に身を落とし、脈も止まり、声も出ず、涙もわかず、茫然《ぼうぜん》自失した様子で頭を振り脣《くちびる》を震わし、目に見え心にあるものは、ただ闇夜《やみよ》に似た何か沈鬱《ちんうつ》な底深いもののみであった。
[#改ページ]

   第九編 彼らはどこへ行く


     一 ジャン・ヴァルジャン

 右と同じ日の午後四時ごろ、ジャン・ヴァルジャンは練兵場の最も寂しい土堤《どて》の陰に一人ですわっていた。用心のためか、あるいは瞑想《めいそう》にふけりたいと思ってか、あるいは単にどんな生活にもしだいに起こってくる知らず知らずの習慣の変化からか、彼はこのごろあまりコゼットを連れて外出しなかった。彼は労働者の上衣を着、鼠色《ねずみいろ》の麻のズボンをはき、長い庇《ひさし》の帽子で顔を隠していた。現在ではもう彼はコゼットのそばで落ち着いて幸福であった。一時彼を脅かしわず
前へ 次へ
全361ページ中232ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング