その上国外に対しては、一八三〇年はもはや革命ではなく王政となったために、全ヨーロッパと歩調を合わせなければならなかった。平和を保全することはいっそうの複雑さをきたすことである。矛盾せるものと調和を保たんとすることは、それと戦うよりもいっそうの厄介事であることが多い。常に嵌口《かんこう》されながら常に囂々《ごうごう》たるその暗黙の闘争から、武装せる平和が、本来既に疑わしい文明の更に自ら身をそこなうべき術数が、生まれたのである。七月の王位は、ヨーロッパの各政府に繋駕《けいが》されながら後足で立ち上がってたけり立った。メッテルニッヒは進んでこの王位に臀革《しりかわ》を施さんとした。フランスにおいては進歩から鞭《むち》打たれたこの王位は、全ヨーロッパにおいては足の緩《ゆる》い各王政を鞭《むち》打った。自ら駆り立てられてまた他を駆り立てんとした。
 そのうちにも国内においては、恐るべき斜面があった。困窮者、下層民、賃金、教育、刑罰、醜業、婦人の地位、富、貧、生産、消費、分配、交易、貨幣、信用、資本家の権利、労働者の権利、すべてそれらの問題が社会の上に輻湊《ふくそう》していた。
 本来の政治的党派のほかにまた、他の運動も現われていた。民主上の機運は思想上の機運と相応じていた。秀《ひい》でたる者も群集と同様に不安を感じていた。意味は異なっていたが程度は同じであった。
 土台が、換言すれば民衆が、革命の潮に浸されて一種|漠然《ばくぜん》たる癲癇的《てんかんてき》動揺をなしてるとともに、その上に立って思想家らは瞑想《めいそう》していた。それらの思索家らは、ある者は孤立しある者はほとんど一組合のごとく一団となって、平和にしかし底深く社会問題を動かしていた。それらは実に虚心平静なる坑夫であって、火山の底まで静かにその坑道を開いてゆき、かすかな震動とほのかな熔岩の光とによって心乱されることもほとんどなかった。
 その静平なる様は、この動揺せる時代の一美観とも言えるものであった。
 それらの人々は、各権利の問題を政党者らにうち任して、自らは幸福の問題に没頭していた。
 人間の安らかな生活、それこそ彼らが社会から掘り出さんと望んでいたものである。
 彼らは物質的問題を、農工商の問題を、ほとんど宗教の高さにまで引き上げていた。少しは神によって多くは人間によって作られてる現在のごとき文明にお
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