した。
「うちのお上《かみ》だ。」とテナルディエは言った。
 その言葉の終わるか終わらないうちに、果たしてテナルディエの女房が室《へや》に飛び込んできた。まっかになって、息を切らし、あえいで、目を光らしていた。そしてその大きな両手で一度に両腿《りょうもも》をたたきながら叫んだ。
「嘘《うそ》の住所だ。」
 女房が引き連れていた悪漢が、彼女のあとからはいってきて、またその斧《おの》を取り上げた。
「嘘の住所だと!」テナルディエは鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
 女房は言った。
「だれもいやしない。サン・ドミニク街十七番地にユルバン・ファーブルなんて者はいやしない。だれにきいても知ってる者なんかいないよ。」
 彼女は息をつまらして言葉を切ったが、それからまた続けて言った。
「テナルディエ、お前さんはその爺《じい》さんにばかにされたんだよ。あまりお前さんも人がよすぎるじゃないか。私ならほんとにそいつの頤を四つ裂きにでもしておいてかかるんだがね。意地の悪いことをしやがったら、生きてるまま煮たててやるんだがね。そうすりゃあ、きっと本当のことを言って娘のおる所や金を隠してる所を吐き出してしまったに違いない。私だったらそういうふうにやってのけるよ。男なんて女よりはよほどばかだって言うが、まったくだ。十七番地なんかにはだれもいやしない。大きな門があるきりなんだ。サン・ドミニク街にはファーブルなんて者はいやしない。大急ぎで馬をかけさせるし、御者には祝儀をやるし、いろいろなことをしてさ。門番の男にも聞いたし、しっかり者らしいそのお上さんにも聞いたが、そんな人はてんで知らないじゃないかね。」
 マリユスはほっと息をついた。ユルスュールかあるいはアルーエットか本当の名前はわからないが、とにかく彼女は救われたのだった。
 たけり立った女房が怒鳴りちらしてる間に、テナルディエはテーブルの上に腰掛けた。彼は一言も発しないでそのままの姿勢をして、たれてる右足を振り動かしながら、残忍な夢想に沈んでるような様子で、しばらく火鉢《ひばち》の方を見やっていた。
 ついに彼は、特に獰猛《どうもう》なゆっくりした調子で捕虜に言った。
「嘘《うそ》の住所だと、いったい貴様何のつもりだ。」
「時間を延ばすためだ!」と捕虜は爆発したような声で叫んだ。
 そして同時に彼は縛られた繩《なわ》を揺すった。それは皆切れていた。捕虜はもはや、片足が寝台に結わえられてるばかりだった。
 七人の男がはっと我に返って飛びかかるすきも与えず、彼は暖炉の所に低く身をかがめ、火鉢の方に手を伸ばし、それからすっくと立ち上がった。そして今やテナルディエもその女房も悪漢どもも、驚いて室《へや》のすみに退き、呆然《ぼうぜん》と彼を見守った。彼はほとんど自由になって恐ろしい態度をし、すごい火光がしたたるばかりのまっかに焼けた鑿《たがね》を、頭の上に振りかざしていたのである。
 ゴルボー屋敷におけるこの待ち伏せの後に間もなく行なわれた裁判所の調査によれば、二つに切り割って特殊な細工を施した大きな一スー銅貨が、臨検の警官によってその屋根部屋《やねべや》の中に見い出されたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって暗黒な用途のために暗黒の中で作り出される驚くべき手工品の一つであり、破獄の道具にほかならない驚くべき品物の一つだった。異常な技術に成ったそれらの恐るべき微妙な作品が宝石細工に対する関係は、あたかも怪しい隠語の比喩《ひゆ》が詩に対する関係と同じである。言語のうちにヴィヨンのごとき詩人らがあると同じく、徒刑場のうちにはベンヴェヌート・チェリーニのごとき金工らがおる。自由にあこがれてる不幸な囚人は、時とすると別に道具がなくても、包丁や古ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切り割り、貨幣の面には少しも疵《きず》がつかないように両片をくりぬき、その縁に螺旋条《らせんじょう》をつけて、また両片がうまく合わさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合わせたりねじあけたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計の撥条《ぜんまい》が隠されている。そしてその撥条をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子《こうし》でも切ることができる。その不幸な囚徒はただ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察の方で捜索をした時、その部屋《へや》の窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれてる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものであった。それからまた、その銅貨の中に隠し得るくらいの小さな青い鋼鉄の鋸《のこぎり》も見い出された。おそらく、悪漢どもが捕虜の身体をさがした時、捕虜はその大きな銅貨を持っていたが、それをうまく手の中に隠し、それから次に、右手が自由になったので、それをねじあけ、中の鋸を使って縛られてる繩《なわ》を切ったものであろう。マリユスが気づいたかすかな音とわずかな動作とは、またそれで説明がつく。
 見現わされるのを恐れて身をかがめることができなかったので、彼は左足の縛りめは切らなかったのである。
 悪漢どもは初めの驚きからようやく我に返った。
「安心しろ。」とビグルナイユはテナルディエに言った。
「まだ左の足が縛ってある。逃げることはできねえ。受け合いだ。あの足を縛ったなあ俺《おれ》だぜ。」
 そのうちに捕虜は声を揚げた。
「君らは気の毒な者どもだ。わしの生命はそう骨折って大事にするほどのものはない。ただ、わしに口をきかせようとしたり、書きたくないことを書かせようとしたり、言いたくないことを言わせようとしたりするからには……。」
 彼は左腕の袖《そで》をまくり上げてつけ加えた。
「見ろ。」
 同時に彼は腕を伸ばして、右手に木の柄をつかんで持っていた焼けてる鑿《たがね》を、そのあらわな肉の上に押し当てた。
 じゅーっと肉の焼ける音が聞こえ、拷問部屋《ごうもんべや》に似たにおいが室《へや》にひろがった。マリユスは恐ろしさに気を失ってよろめき、悪漢どもすら震え上がった。しかしその異常な老人の顔はちょっとひきつったばかりだった。そして赤熱した鉄が煙を上げてる傷口の中にはいってゆく間、彼は平気なほとんど荘厳な様子で、美しい目をじっとテナルディエの上にすえていた。その目の中には、何ら憎悪《ぞうお》の影もなく、一種朗らかな威厳のうちに苦痛の色も消えうせてしまっていた。
 偉大な高邁《こうまい》な性格の人にあっては、肉体的の苦悩にとらえられた筋肉と感覚との擾乱《じょうらん》は、その心霊を発露さして、それを額の上に現出させる。あたかも兵卒らの反逆はついに指揮官を呼び出すがようなものである。
「みじめな者ども、」と彼は言った、「わしが君らを恐れないと同じに、君らももうわしを恐れるには及ばない。」
 そして彼は傷口から鑿を引き離し、開いていた窓からそれを外に投げ捨てた。赤熱した恐ろしい道具は、回転しながら暗夜のうちに隠れ、遠く雪の中に落ちて冷えていった。
 捕虜は言った。
「どうとでも勝手にするがいい。」
 彼はもう武器は一つも持っていなかった。
「奴《やつ》を捕えろ!」とテナルディエは言った。
 悪漢のうちのふたりは彼の肩をとらえた。そして仮面をつけた腹声の男は、彼の前に立ちふさがって、少しでも動いたら大鍵《おおかぎ》を食わして頭を打ち破ってやろうと待ち構えた。
 同時にマリユスは、壁の下の方で自分のすぐ下に、低い声でかわされる次の対話を聞いた。あまり近いので、話してる者の姿は穴から見えなかった。
「こうなったらほかに仕方はねえ。」
「やっつける!」
「そうだ。」
 それは主人と女房とが相談してるのだった。
 テナルディエはゆっくりとテーブルの方へ歩み寄って、その引き出しを開き、ナイフを取り出した。
 マリユスはピストルの手を握りしめた。異常な困惑のうちに陥った。一時間前から、彼の内心のうちには二つの声があった。一つは父の遺言を尊重せよと彼に語り、一つは捕虜を救えと彼に語っていた。その二つの声は絶えず互いに争闘を続けて彼をもだえさした。彼はこの瞬間まで、その二つの義務を相融和し得る道はないかと漠然《ばくぜん》と願っていた。しかしそれをかなえるようなものは何も起こってこなかった。しかるにもはや危機は迫っており、遅滞の最後は越えられていた。捕虜から数歩の所に、テナルディエはナイフを手にして考え込んでいた。
 マリユスは昏迷《こんめい》してあたりを見回した。絶望の極の最後の機械的な手段である。
 と突然、彼はおどり上がった。
 彼の足下に、テーブルの上に、満月の強い光が一枚の紙片を照らし出して、彼にそれを示してるかのようだった。その紙片の上に彼は、テナルディエの姉娘がその朝書いた大きな文字の次の一行を読んだ。
 ――いぬがいる[#「いぬがいる」に傍点]。
 一つの考えが、一つの光が、マリユスの脳裏をよぎった。それこそ彼がさがしている方法だった。彼を苦しめてる恐るべき問題の解決、殺害者を逃がし被害者を救う方法であった。彼は戸棚の上にひざまずき、腕を伸ばし、その紙片をつかみ取り、壁から一塊の漆喰《しっくい》を静かにはぎ取り、それを紙片に包みそのままそれを部屋《へや》のまんなかに穴から投げ込んだ。
 ちょうど危うい時であった。テナルディエは最後の危懼《きぐ》もしくは最後の用心をおさえつけて、捕虜の方へ歩を進めていた。
「何か落ちた。」とテナルディエの女房は叫んだ。
「何だ?」と亭主は言った。
 女房は駆け寄って、紙に包んだ漆喰を拾った。
 彼女はそれを亭主に渡した。
「どこからきたんだ。」とテナルディエは尋ねた。
「なにどこから来るもんかね、」と女房は言った、「窓からよりほかはないじゃないかね。」
「俺《おれ》はそれが飛んで来る所を見た。」とビグルナイユは言った。
 テナルディエは急いで紙をひらき、蝋燭《ろうそく》の火に近づけた。
「エポニーヌの手蹟《て》だ。畜生!」
 彼は女房に合い図をすると、女房はすぐにそばにきた。彼は紙に書いてある一行の文句を示して、それから鈍い声でつけ加えた。
「早く! 梯子《はしご》だ。肉は鼠罠《ねずみわな》に入れたままで、引き上げよう。」
「首をちょんぎらずにかえ。」と女房は尋ねた。
「そんな暇はねえ。」
「どこから逃げるんだ。」とビグルナイユは言った。
「窓からよ。」とテナルディエは答えた。「エポニーヌが窓から石をほうり込んだところを見ると、その方には手が回ってねえことがわかる。」
 仮面をつけた腹声の男は、大鍵《おおかぎ》を下に置き、両腕を高く上げて、黙ったままその手を三度急がしく開いたり握ったりした。それは船員らの間の戦闘準備の合い図みたいなものだった。捕虜をとらえていた悪漢はその手を離した。またたく間に、繩梯子《なわばしご》は窓の外におろされ、二つの鉄の鈎《かぎ》でしっかと窓縁に止められた。
 捕虜は周囲に起こってることには少しも注意をしなかった。彼は何か夢想しあるいは祈祷《きとう》してるがようだった。
 繩梯子《なわばしご》がつけられるや、テナルディエは叫んだ。
「こい、上《かみ》さん!」
 そして彼は窓の方へつき進んだ。
 しかし彼がそこをまたごうとした時、ビグルナイユは荒々しく彼の襟筋《えりすじ》をつかんだ。
「いけねえ、古狸《ふるだぬき》め、俺《おれ》たちが先だ。」
「俺たちが先だ!」と悪漢どもは怒鳴り立てた。
「つまらねえ野郎だな、」とテナルディエは言った、「時間をつぶすばかりだ。いぬどもがきかかってるじゃねえか。」
「じゃあ、」とひとりの悪漢が言った、「だれが一番先か籤引《くじび》きをしろ。」
 テナルディエは叫んだ。
「ばかども、気でも狂ったのか。のろまばかりそろってやがる。時間をつぶすばかりじゃねえか。籤引きをするっていうのか。じゃんけんか、藁屑《わらくず》か、名前を書いて帽子に入れてか……。」
「俺の帽子ではどうだ。」と入り口の所に声がした。
 皆の者は振り向いた。それはジャヴェルだった。
 彼は手
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