名ビグルナイユは、テナルディエの言うとおりにした。捕虜の右手が自由になった時、テナルディエはペンをインキに浸して、それを彼に差し出した。
「旦那、よく頭に入れておいてもらいましょうや。お前さんは今日わしらの手の中にありますぜ。わしらの思うままに、まったく思うままにどうにでもできますぜ。人間の力ではとうていお前さんをここから助け出すことはできねえ。だがわしらだって荒療治をしなけりゃならねえようになるのはまったくいやなんだ。わしはお前さんの名前も知らねえし、住所も知らねえ。しかしことわっておくが、お前さんがこれから書く手紙を持って行く使いの者が帰って来るまでは、縛られたままでいなさらなけりゃならねえ。そのつもりで、さあ書きなさるがいい。」
「何と?」と捕虜は尋ねた。
「わしの言うとおりに。」
 ルブラン氏はペンを取った。
 テナルディエは口授し初めた。
「――わが娘よ……――」
 捕虜は身を震わして、テナルディエの方へ目を上げた。
「――わが愛する娘よ――と書きなさい。」とテナルディエは言った。
 ルブラン氏はそのとおりに書いた。テナルディエは続けた。
「――すぐにおいで……――。」
 彼は言葉を切った。
「お前さんは彼女《あれ》にそういうふうな親しい言い方をしていなさるだろうな。」
「だれに?」とルブラン氏は尋ねた。
「わかってらあな、」とテナルディエは言った、「あの子供にさ、アルーエットにさ。」
 ルブラン氏は外見上いかにも冷静に答えた。
「何のことだか私にはわからない。」
「でもまあ書きなさい。」とテナルディエは言った。そしてまた口授を初めた。
「――すぐにおいで。是非お前にきてほしい。この手紙を持って行く人が、お前を私の所へ案内してくれることになっている。私はお前を待っている。やっておいで安心して――。」
 ルブラン氏はそれをすっかり書いた。テナルディエは言った。
「ああ安心して[#「安心して」に傍点]というのは消しなさい。それは何だか普通のことでないような気を起こさして、不安に思わせるかも知れない。」
 ルブラン氏はその四字を消した。
「さあ署名しなさい。」とテナルディエは言った。「お前さんの名は何て言うのかな。」
 捕虜はペンを置いて、そして尋ねた。
「だれにこの手紙はやるんですか。」
「お前さんにはよくわかってるはずだ。」とテナルディエは答えた。「あの子供にさ。今言ってきかしたとおりだ。」
 問題の若い娘の名を言うことをテナルディエが避けてるのは明らかだった。彼は「アルーエット」(ひばり娘)と言いまた「あの子供」と言いはしたが、その名前は口に出さなかった。それは共犯者らの前にも秘密を守る巧妙な男の用心であった。名前を言うことは「その仕事」を彼らの手に渡してしまうことだったろう、そして彼らに必要以上のことを知らせることだったろう。
 彼は言った。
「署名しなさい。お前さんの名は何というんだ。」
「ユルバン・ファーブル。」と捕虜は答えた。
 テナルディエは猫《ねこ》のようにすばしこく手をポケットにつっ込んで、ルブラン氏から取り上げたハンカチを引き出した。彼はそのしるしをさがして、蝋燭《ろうそく》の火に近づけた。
「U・F、なるほど。ユルバン・ファーブル。ではU・Fと署名しなさい。」
 捕虜は署名をした。
「手紙を畳むには両手がいるから、わしに渡しなさい、わしが畳むから。」
 それがすむと、テナルディエは言った。
「住所を書きなさい。お前さんの家のファーブル嬢[#「ファーブル嬢」に傍点]と。ここからそう遠くねえ所に、サン・ジャック・デュ・オー・パの付近に、お前さんが住んでることをわしは知ってる。毎日その教会堂の弥撒《ミサ》に行きなさるのでもわかる。だがどの町だかわしは知らねえ。お前さんは今どんな場合にいるかわかっていなさるはずだと思う。だから名前に嘘《うそ》を言わなかったとおり、住所にも嘘を言わねえがいい。自分でそれを書きなさい。」
 捕虜はちょっと考え込んでいたが、やがてペンを取って書いた。
 ――サン・ドミニク・ダンフェール街十七番地、ユルバン・ファーブル氏方、ファーブル嬢殿。
 テナルディエは熱に震えるような手つきでその手紙をつかんだ。
「女房。」と彼は叫んだ。
 テナルディエの女房は急いでやって来た。
「さあ手紙だ。やることはわかってるだろう。辻馬車《つじばしゃ》が下にある。すぐに出かけて、すぐに帰ってこい。」
 それから斧《おの》を持ってる男の方へ言った。
「貴様はちょうど面を取ってるから、うちの上《かみ》さんについてってくれ。馬車の後ろに乗ってゆくがいい。例の小馬車を置いてきた所はわかってるな。」
「わかってる。」と男は言った。
 そして斧を片すみに置いて、彼はテナルディエの女房のあとについて行った。
 ふたりが出てゆくと、テナルディエは半ば開いている扉《とびら》から顔をさし出して、廊下で叫んだ。
「何より手紙を落とさないようにしろ! 二十万フラン持ってると同じだぞ。」
 テナルディエの女房のしわがれた声がそれに答えた。
「安心しておいで。内ふところにしまってるから。」
 一分間とたたないうちに、鞭《むち》の音が聞こえたが、それもすぐに弱くなって消えてしまった。
「よし、」とテナルディエはつぶやいた、「ずいぶん早えや。あの調子で駆けてゆきゃあ、家内は四、五十分で戻ってくる。」
 彼は暖炉に近く椅子《いす》を寄せ、そこに腰をおろして、両腕を組み、泥だらけの靴《くつ》を火鉢《ひばち》の方へ差し出した。
「足が冷てえ。」と彼は言った。
 テナルディエと捕虜とともにその部屋《へや》の中にいるのは、もう五人の悪漢ばかりだった。彼らは仮面をつけたりあるいは黒く塗りつぶしたりして顔を隠しながら、なるべく恐ろしく見せかけるように、炭焼き人だの黒人だの悪魔だのの姿をまねていたが、皆のろい沈鬱《ちんうつ》な様子をしていた。それを見ると、彼らは罪悪を犯すことをもちょうど仕事をするような具合に、至って平気で、何ら憤激の情も憐愍《れんびん》の念もなしに、一種の退屈らしい様子でやってるようだった。彼らは獣のようにすみにかたまって黙々としていた。テナルディエは足を暖めていた。捕虜はまた無言のうちに沈んでいた。先刻その部屋を満たしていた荒々しい騒ぎに次いで、陰惨な静けさがやってきたのである。
 芯《しん》に大きく灰のたまってる蝋燭《ろうそく》が、その広い部屋をぼんやり照らしてるばかりで、火鉢の火も弱くなっていた。そしてそこにおる怪物らの頭は、壁や天井に変な形の影を投げていた。
 聞こえるものはただ、眠ってる酔っ払いの老人の静かな息の音ばかりだった。
 マリユスは種々重なってきた心痛のうちにじっと待っていた。謎《なぞ》はますます不可解になってきた。テナルディエがアルーエットと呼んだあの「子供」はいったい何であったろうか。彼の「ユルスュール」のことであったろうか。捕虜はそのアルーエットという言葉を聞いても少しも心を動かさないらしかった、そしてごく自然に「何のことだか私にはわからない」と答えた。しかし一方に、U・Fという二字は説明された。それはユルバン・ファーブルだった。そしてユルスュールも今はユルスュールという名ではなくなった。マリユスが最もはっきり知り得たのはその一事だった。一種の恐ろしい魅惑にとらえられて彼は、全光景を観察し見おろし得るその場所に釘付《くぎづ》けにされてしまった。そこに彼は、目近にながめた厭《いと》うべきできごとから圧伏されたかのようになって、ほとんど考えることも動くこともできなかった。いかなる事にてもあれただ何か起こることを望むだけで、考えをまとめることもできず、決心を固める術《すべ》も知らずに、彼はただ待っていた。
「いずれにしても、」と彼は思った、「アルーエットというのが彼女のことであるかどうか、これからはっきりわかるだろう。テナルディエの女房がそれをここへ連れて来るだろうから。その時こそ私の心は決するのだ。もし必要であれば、私はこの生命と血潮とをささげても彼女を救ってやる。いかなることがあっても私はあとへは退かない。」
 かくて三十分ばかり過ぎ去った。テナルディエはある暗黒な瞑想《めいそう》のうちに沈み込んでるようだった。捕虜は身動きもしなかった。けれどもマリユスは、少し前から時々間を置いて、捕虜のあたりに何か鋭いかすかな音が聞こえるように思った。
 突然、テナルディエは捕虜に言いかけた。
「ファーブルさん、今すぐに言っといた方がいいようだから聞かしてあげよう。」
 その数語は、これから何か説明が初まるもののように思われた。マリユスは耳を傾けた。テナルディエは言い続けた。
「家内はすぐに帰って来る。そうせかないで待っていなさるがいい。アルーエットはまったくお前さんの娘だろうから、お前さんが家に引き取って置きてえなああたりまえだとわしも思う。だがちょっと聞いておいてもらいましょう。お前さんの手紙を持って、家内は娘さんに会いに行く。ところでさっきごらんのとおり家内へは相当な服装《なり》をさしといたから、すぐに娘さんはついて来るに違いない。そしてふたりは辻馬車《つじばしゃ》に乗るが、その後ろにはわしの仲間がひとり乗ってる。市門の外のある場所には、上等の馬が二匹ついてる小馬車がある。そこまでお前さんの娘は連れてこられるんだ。そこで娘さんは辻馬車からおりて、わしの仲間といっしょに小馬車に乗る。家内はここに帰ってきて報告する、すんだと。娘さんの方には別に悪いことはしねえ。娘さんはある所まで小馬車で連れてゆかれるが、そこにじっとしてるだけだ。そしてお前さんが二十万フランの小金《こがね》をわしにくれるとすぐに娘さんを返してあげる。もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。まあざっとこういう筋道だ。」
 捕虜は一言をも発しなかった。ちょっと休んでからテナルディエは言い続けた。
「お聞きのとおり何でもねえことなんだ。お前さんの心次第で何も悪いことは起こりゃあしねえ。うち明けてわしは話したんだ。よくのみ込んでおいてもらいてえと思ってな。」
 彼は言葉を切った。捕虜は口を開こうともしなかった。テナルディエはまた言った。
「家内が帰ってきて、アルーエットは出かけたと言いさえすりゃあ、すぐにお前さんは許してあげる。勝手に家に帰って寝てもいい。ねえ、わしらは別に悪い計画《たくらみ》を持ってやしねえ。」
 恐るべき幻がマリユスの脳裏を過《よ》ぎった。何事ぞ、彼らはその若い娘を奪ってここへは連れてこないのか。あの怪物のひとりがその娘を暗黒のうちに運び去ろうとするのか。いったいどこへ?……そしてもしその娘が果たして彼女であったならば! いや彼女であることは明らかである。マリユスは心臓の鼓動も止まるような気がした。どうしたものであろう。ピストルを打つがいいか。その悪漢どもを皆警官の手に渡してしまうがいいか。しかしそれにしても、あの恐ろしい斧《おの》の男は若い娘を連れてやはり手の届かぬ所に行ってるだろう。マリユスは恐ろしい意味が察せらるるテナルディエの数語を思った。「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば[#「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば」に傍点]、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ[#「わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ」に傍点]。」
 今はもう大佐の遺言のためばかりではなく、また自分の恋のために、愛する人の危険のために、差し控えていなければならないように彼は思った。
 既に一時間以上も前から続いたその恐ろしい情況は一瞬ごとに様子を変えていった。マリユスは勇を鼓して最も悲痛な推測を一々考慮してみた、そして何かの希望をさがし求めたが少しも見い出されなかった。彼の脳裏の騒乱はその巣窟《そうくつ》の気味悪い沈黙と異様な対照をなしていた。
 その沈黙のうちに、階段の所の扉《とびら》が開いてまたしまる音が聞こえた。
 捕虜は縛られながらちょっと身を動か
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