な人や臭い人がいっぱいいるんだもの。」
 それから彼女はつくづくとマリユスをながめ、妙な様子をして言った。
「マリユスさん、あなたは自分が大変いい男なのを知ってるの?」
 そして同時に同じ考えがふたりに起こった。それで娘は微笑したが、マリユスは顔を赤くした。
 彼女は彼に近寄って、片手をその肩の上に置いた。
「あなたはあたしを気にも留めてないが、あたしはマリユスさん、あなたを知っててよ。ここでもよく階段の所で会ったわ。それから、オーステルリッツ橋の近くに住んでるマブーフという爺《じい》さんの家へあなたが行くのを、何度も見たわ、あの近所を歩いてる時に。あなた、そう髪の毛を散らしてる所がよく似合ってよ。」
 彼女はやさしい声をしようとしていたが、そのためにただ声が低くなるばかりだった。あたかも鍵《キー》のなくなってる鍵盤《けんばん》の上では音が出ないように、彼女の言葉の一部は喉頭《こうとう》から脣《くちびる》へ来る途中で消えてしまった。
 マリユスは静かに身を引いていた。
「お嬢さん、」と彼は冷ややかな厳格さで言った、「たぶんあなたのらしい包みがそこにあります。あなたにお返ししましょう。」
 そして彼は四つの手紙がはいってる包みを取って彼女に差し出した。
 彼女は手を打って叫んだ。
「まあ方々さがしたのよ。」
 それから急に包みを引ったくって、その包み紙を開きながら言った。
「ほんとに妹とふたりでどのくらいさがしたか知れやしない! あなたが拾ってくれたのね。大通りででしょう。大通りに違いないわ。駆けた時に落としたのよ。そんなばかなことをしたのは妹なのよ。家へ帰ってみるとないんだもの。打たれたくないもんだから、打たれたって何の役にもたたないから、ほんとに何の役にもたたないから、全くよ、だからわたしたちはこう言ったの、手紙はちゃんと持って行ったがどこでも断わられてしまったって。それが手紙はみんなここにあったのね。どうしてあなたそれがあたしのだとわかって? ああそう、筆蹟《て》でね。では昨晩《ゆうべ》あたしたちが道でつき当たったのは、あなただったのね。ちっとも見えなかったんだもの。あたしは妹に言ったの、男だろうかって。すると妹は、そうらしいと言ったわ。」
 そう言ってるうちに彼女は、「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿」というあて名の手紙を開いてしまった。
「そう、」と彼女は言った、「これは弥撒《ミサ》へゆくお爺《じい》さんへやる手紙よ。ちょうど時間だわ。あたし持ってってこよう。朝御飯が食べられるだけのものをもらえるかも知れない。」
 それから彼女は笑い出してつけ加えた。
「今日の朝御飯はあたしたちにとっては何だかあなたにわかって? 一昨日《おととい》の朝御飯と、一昨日の晩御飯と、昨日《きのう》の朝御飯と昨日の晩御飯と、それだけをみんないっしょに今朝《けさ》食べることになるのよ。かまやしない、お腹《なか》がはち切れるほど食べてやるわ。」
 それでマリユスは、その不幸な娘が自分の所へ求めにきたものが何であったかを思い出した。
 彼はチョッキの中を探ったが、何もなかった。
 娘はしゃべり続けた。あたかもマリユスがそこにいるのも忘れてしまったがようだった。
「あたしはよく晩に出かけていくの。何度も帰ってこないこともあるわ。ここに来る前、去年の冬は、橋の下に住んでたのよ。冷え切ってしまわないように皆重なり合ってたわ。妹なんか泣いててよ。水ってほんとに悲しいものね。身を投げようかと思ったが、でもあまり寒そうだからといつも思い返したの。出かけたい時はすぐにひとりで出かけてよ。溝《みぞ》の中に寝ることもよくあるわ。夜中に街路《まち》を歩いてると、木が首切り台のように見えたり、大きい黒い家がノートル・ダームの塔のように見えたり、また白い壁が川のように見えるので、おや向こうに水があるって思うこともあるのよ。星がイリュミネーションの燈《あかり》のように見えて、ちょうど煙が出たり、風に吹き消されたりしてるようで、また耳の中に馬が息を吹き込んでるような気がしてびっくりするのよ。夜中なのに、バルバリーのオルガンの音だの、製糸工場の機械の音だの、何だかわからない種々なものが聞こえてよ。だれかが石をぶっつけるようなの、夢中に逃げ出すの、あたりがぐるぐる回り出すの、何もかも回り出すのよ。何にも食べないでいると、ほんとに変なものよ。」
 そして彼女は我を忘れたようにマリユスをながめた。
 マリユスは方々のポケットを探り回したあげく、ついに五フランと十六スーを集め得た。それが現在彼の持ってる全部だった。「まあこれで今日の夕食は食えるし、明日《あす》のことはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。そして十六スーを取って置き、五フランを娘に与えた。
 娘はその貨幣をつかんだ。
「まあ有り難い、」と彼女は言った、「太陽《おひさま》が照ってる!」
 そしてあたかもその太陽が、彼女の頭の中の怪しい言葉の雪崩《なだれ》を解かす力でも持ってたかのように、彼女は言い続けた。
「五フラン! 光ってるわ、王様だわ、このでこの中にね。しめだわ。あなたは親切なねんこだわ。あたしあなたにぞっこんでよ。いいこと、どんたくだわ。二日の間は、灘《なだ》と肉とシチュー、たっぷりやって、それに気楽なごろだわ。」
 そんな訳のわからぬことを言って、シャツを肩に引き上げ、マリユスにていねいにおじぎをし、それから手で親しげな合い図をし、そして扉《とびら》の方へ行きながら言った。
「さようなら。でもとにかく、あのお爺《じい》さんをさがしに行ってみよう。」
 出がけに彼女は、ひからびたパンの外皮が戸棚の上の塵《ちり》の中にかびかかっているのを見つけて、それに飛びかかり、すぐにかじりつきながらつぶやいた。
「うまい、堅い、歯が欠けそうだ。」
 それから彼女は出て行った。

     五 運命ののぞき穴

 マリユスはもう五年の間、貧困、欠乏、窮迫のうちに生きていた。しかし彼はまだ本当の悲惨を知らなかったことに気づいた。彼は本当の悲惨を今しがた見たのであった。彼の目の前を通って行ったあの悪鬼こそそれだったのだ。実際、男の悲惨のみを見たとて、まだ本当のものを見たとは言えない、女の悲惨を見なければいけない。女の悲惨のみを見たとてまだ本当のものを見たとは言えない、子供のそれを見なければいけない。
 最後の困窮に達する時、男はまた同時に最後の手段に到着する。ただ彼の周囲の弱き者こそ災いである! 仕事、賃金、パン、火気、勇気、好意、すべてを男は同時に失う。外部に日の光が消えたようになる時、内部には精神の光が消える。その暗黒のうちにおいて彼は、弱い女や子供と顔を合わせる。そして彼らをしいて汚辱のうちにはいらせる。
 その時こそ戦慄《せんりつ》すべきあらゆることが可能になる。絶望をかこむ囲壁はもろく、どこからでも直ちに悪徳や罪悪に通い得る。
 健康、青春、名誉、うら若き肉身の初心なる聖《きよ》き羞恥《しゅうち》、情操、処女性、貞節など、すべて魂の表皮は、手段を講ずる模索によって、汚賤《おせん》に出会いそれになれゆく模索によって、悲惨なる加工を受くる。父、母、子供、兄弟、姉妹、男、女、娘、すべての者は、性と血縁と年齢と醜悪と潔白との差別なく暗澹《あんたん》たる混乱のうちにからみ合い、あたかも鉱石が作らるるように一つに凝結する。互いに寄り合って運命の破屋の中にうずくまる。互いに悲しげに見合わせる。おお不運なる者らよ! いかに青ざめてることか。いかに冷えきってることか。われわれよりもはるかに太陽から遠い星の中にいるかのようである。
 あの若い娘はマリユスにとって、暗黒の世界からつかわされたもののようであった。

 彼女はマリユスに、暗夜の恐ろしい一面を開いて見せた。
 マリユスは、今まで空想と情熱とに心奪われて、隣の者らには一瞥《いちべつ》をも与えなかったことを、自ら難じた。彼らの家賃を払ってやったことは、ただ機械的の行為で、人の皆なすところであろう。しかし彼マリユスは、なおよりよきことをなすべきではなかったろうか。人の住む境域を越えた暗夜のうちに手探りで生きてるそれらの捨てられたる人々は、ただ一重の壁でへだたっていたのみではなかったか。彼は彼らと肱《ひじ》をすれ合わしていた。彼こそはある意味において、彼らが触れ得る人類の最後の鎖の環《わ》であった。自分のそばに彼らが生きてる物音が、否むしろ瀕死《ひんし》のあえぎをしてるのが、聞こえていたのである。しかも彼はそれに少しも注意をしなかった。日々に、刻々に、壁を通して、彼らが歩き行き来たり語るのが聞こえていた。しかも彼は耳を貸そうともしなかった。そして彼らの言葉のうちにはうめきの声が交じっていたが、彼はそれに耳を傾けようともしなかった。彼の頭は他にあって、夢想に、不可能の光輝に、空漠《くうばく》たる愛に、熱狂に向いていた。しかるに一方では、同じ人間が、イエス・キリストを通じての同胞が、民衆としての同胞が、彼のそばに苦しんでいた。甲斐《かい》なき苦しみをしていた。その上彼は、彼らの不幸の一部を助成し、彼らの不幸をいっそう重くしていた。なぜなれば、彼らがもし他の隣人を持っていたならば、彼よりもいっそう非空想的で注意深い隣人を持っていたならば、普通の恵み深い人を持っていたならば、必ずや彼らの困窮はその人の認むるところとなり、彼らの窮迫のありさまはその人の気づくところとなって、既に久しい前から彼らは収容せられ救われていたかも知れない。もとより彼らの様子は、きわめて退廃し、腐敗し、汚れ、嫌悪《けんお》すべきものとはなっていたけれど、しかし零落したる者は多く堕落するが常である。その上、不運なる者と汚れたる者という二つが混合し融合して、一つの宿命的な言葉、惨《みじ》めなる者という一語を成すがような一点が、世にはある。そしてそれもだれの誤ちであるか? そしてまた、その堕落が底深ければ深いほどいっそう大なる慈悲を与うべきではないか。
 そうマリユスは自ら訓戒した。時として彼は、真に正直な人に見らるるように、自ら自分の教訓師となり、過度に自分を叱責《しっせき》することがあった。で今やそうしながら、ジョンドレットの一家をへだてる壁をじっと見守った。あたかも彼は、憐愍《れんびん》の情に満ちてる目でその壁を貫き、その不幸な人々をあたためんとしてるかのようだった。壁は割り板と角材とでささえた薄い漆喰《しっくい》で、前に言ったとおり、言葉と声音とをはっきり通さしていた。今までそれに気づかなかったとは、マリユスもよほどの夢想家だったに違いない。ジョンドレットの方にもまたマリユスの方にも、何らの壁紙もはってなかった。粗末な構造が露わに見えていた。マリユスはほとんど自ら知らないで、その壁を調べてみた。時としては夢想も思想がなすように物を調べ観察し精査する。マリユスは突然飛び上がった。高く天井に近い所に、三枚の割り板がよく合わないでできてる三角形の穴が一つあるのを、気づいたのである。そのすき間をふさいでいたはずの漆喰はなくなっていた。戸棚の上に上れば、そこからジョンドレットのきたない室の中は見られる。哀憐《あいれん》の情にも、好奇心があり、またあるべきはずである。そのすき間は一種ののぞき穴になっていた。不運を救わんがためには、それをひそかにながめることも許される。「彼らはどういう者であるか、またどんな状態でいるか、少し見てやろう、」とマリユスは考えた。
 彼は戸棚の上にはい上がり、瞳《ひとみ》を穴にあてがい、そしてながめた。

     六 巣窟《そうくつ》中の蛮人

 都市にも森林と同じく、その最も猛悪なる者が身を隠してる洞窟《どうくつ》がある。ただ都市にあっては、かく身を隠す者は、獰猛《どうもう》で不潔で卑小で、一言にして言えば醜い。森林にあっては、身を隠す者は、獰猛で粗野で偉大で、一言にして言えば美しい。両者の巣窟を比ぶれば、野獣の方が人間よりもまさっている。洞窟は陋屋《ろうおく》よりも上である。
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