平気に現われてきて、文士ジャンフローもスペインの大尉も何ら異なるところがなかった。
この小秘密を解かんとつとめることは、まったくむだな骨折りだった。もしそれが拾い物でなかったら、単に人をからかうものとしか思われなかったろう。その上マリユスは悲しみのうちに沈んでいたので、偶然の悪戯《いたずら》を取り上げるだけの余裕もなく、街路の舗石《しきいし》が彼に試みたようなその遊びに心を向けるだけの余裕もなかった。あたかも四通の手紙の間の目隠し鬼になってからかわれてるような気がした。
またその手紙はマリユスが大通りで出会った二人の娘のものだということを示すものも、何もなかった。要するに何らの価値もない反故《ほぐ》にすぎないことは明らかだった。
マリユスは四つの手紙をまた包み紙に入れて、室《へや》の片すみになげすて、そして床についた。
翌朝七時ごろ、彼は起き上がって朝食をし、それから仕事にかかろうとした。その時静かに扉《とびら》をたたく者があった。
いったい彼は所持品と言っては何もなかったので、かつて、扉に錠をおろさなかった。ただ時として急ぎの仕事をしてる時は錠をおろすこともあったが、それもごくまれにしかなかった。また外出する時でさえ、鍵《かぎ》を錠前に差し込んだままにしておいた。「泥坊がはいりますよ、」とブーゴン婆さんはよく言った。「盗まれるものは何もありません、」とマリユスは答えていた。けれども実際、ある日|古靴《ふるぐつ》を一足盗まれたことがあって、ブーゴン婆さんの言ったとおりになった。
扉は再び初めのようにごく軽くたたかれた。
「おはいりなさい。」とマリユスは言った。
扉は開いた。
「何か用ですか、ブーゴン婆さん。」とマリユスはテーブルの上の書物と書き物とから目を離さないで言った。
するとブーゴン婆さんのでない別の声が答えた。
「ごめんなさい。あの……。」
その声は鈍く乱れしわがれ濁っていて、火酒《ウォッカ》や焼酎《しょうちゅう》で喉《のど》をつぶした老人のような声だった。
マリユスは急にふり返った。そこにはひとりの若い娘がいた。
四 困窮の中に咲ける薔薇《ばら》
まだうら若い娘がひとり、半ば開いた扉《とびら》の所に立っていた。光のさしこむ屋根裏の軒窓がちょうど扉と向き合ったところにあって、彼女の顔を青白い光で照らしていた。色の悪いやせ衰えた骨立った女で、冷え震えている裸体の上には、ただシャツと裳衣とをつけてるだけだった。帯の代わりに麻糸をしめ、頭のリボンの代わりに麻糸を結わえ、とがった両肩はシャツから現われ、褐色の憂鬱《ゆううつ》な顔には血の気がなく、鎖骨のあたりは土色をし、赤い手、半ば開いてる色あせた口、抜け落ちた歯、ほの暗い大胆な賤《いや》しい目、未熟な娘のかっこうで腐敗した老婆の目つきだった。五十歳と十五歳とがいっしょになった形だった。全体が弱々しくまた同時に恐ろしい生物で、人をして震え上がらしむるかまたは泣かしむる生物だった。
マリユスは立ち上がって、夢の中に現われて来る影のようなその女を、惘然《ぼうぜん》として見守った。
ことに痛ましいのは、彼女は生まれつき醜いものでなかったことである。ごく小さい時には美しかったに違いない。年頃の容色はなお、汚行と貧困とから来る恐ろしい早老のさまと戦っていた。一抹《いちまつ》の美しさがその十六歳の顔の上に漂っていて、冬の日の明け方恐ろしい雲の下に消えてゆく青白い太陽のように見えていた。
その顔にマリユスは全然見覚えがないでもなかった。どこかでかつて見たことがあるような気がした。
「何か御用ですか。」と彼は尋ねた。
若い娘は酒に酔った囚徒のような声で答えた。
「マリユスさん、手紙を持ってきたのよ。」
彼女はマリユスと名を呼んだ。彼女がやはり彼に用があってきたことは疑いなかった。しかし彼女はいったい何者なのか、どうしてマリユスという名を知ったのか?
彼がこちらへと言うのも待たないで、娘ははいってきた。彼女はつかつかとはいってきて、驚くばかりの平気さで、室《へや》の方々を見回し、取り乱した寝床をながめた。足には何もはいていなかった。裳衣の大きな裂け目からは、長い脛《はぎ》とやせた膝《ひざ》とが見えていた。彼女は震えていた。
彼女は実際手に一通の手紙を持っていて、それをマリユスに渡した。
マリユスは手紙を開きながら、その大きな封糊がまだ湿っているのに気づいた。使いの者は遠くからきたのではないに違いなかった。彼は手紙を読み下した。
[#ここから4字下げ]
隣の親切なる青年よ!
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小生は貴下が六カ月以前小生の家賃を御払い下され候好意を聞き及び候《そうろう》。小生は貴下の幸福を祈り候。小生らは一家四人にて、この一週間一片のパンすらもなく、しかも家内は病気にかかりおり候こと、万事は長女より御聞き取り下されたく候。もし小生の思い違いに候わずば、寛大なる貴下はこの陳述に動かされ、小生に些少《さしょう》の好意を寄せ恵みをたれんとの念を起こしたまわることを、期待して誤りなきかと信じ申候。
人類の恩恵者に対して負うべき至大の敬意を表し候。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]ジョンドレット
[#ここから3字下げ]
追白――小生の長女は、マリユス殿、貴下の御さし図を待ち申すべく候。
[#ここで字下げ終わり]
その手紙は、前日の晩からマリユスの頭を占めていた不思議な事件のさなかにきたので、あたかも窖《あなぐら》の中に蝋燭《ろうそく》をともしたようなものだった。すべてが突然明らかになった。
その手紙は他の四通の手紙と同じ所からきたものだった。同じ筆蹟、同じ文体、同じ文字使い、同じ紙、同じ煙草《たばこ》のにおい。
五つの手紙、五つの話、五つの名前、五つの署名、そしてただ一人の筆者。スペインの大尉ドン・アルヴァレス、不幸なる女バリザール、劇詩人ジャンフロー、老俳優ファバントゥー、それらは四人のジョンドレットにすぎなかった。ただしそれもジョンドレット自身が果たしてジョンドレットという名前であるとすればである。
マリユスはもうかなり長くその屋敷に住んでいたが、前に言ったとおり、その賤《いや》しい隣人については、会う機会はめったになく、一瞥《いちべつ》を与えることさえもまれであった。彼は他に心を向けていた。心の向かうところに目も向くものである。実は廊下や階段でジョンドレット一家の者に行き会うことは、一度ならずあったはずであるが、彼にとって彼らは皆単に影絵にすぎなかった。彼は少しも注意を払っていなかった。それで前日の晩、大通りでジョンドレットの娘らにつき当たりながらも――それは明らかに彼女らに相違なかった――だれであるか一向わからなかったほどで、自分の室《へや》にはいってきた娘に対しても、嫌悪《けんお》と憐愍《れんびん》との感を通して、どこかほかで会ったことがあるというぼんやりした覚えがあるに過ぎなかった。
しかるに今やすべてが明らかにわかってきた。彼は事情を了解した。隣にいるジョンドレットは、困窮の揚げ句、慈善家の慈悲をこうのを仕事としていること。種々の人の住所を調べていること。金持ちで慈悲深そうな人々へ仮りの名前で手紙を書き、娘なんかどうなろうとかまわないほどのひどい状態にあるので、娘らに危険を冒して手紙を持って行かしてること。運命と賭事《かけごと》をし、娘らをその賭物としてること。また前日娘らが逃げ出しながら息を切らしおびえていた所を見、耳にしたあの変な言葉から察すると、おそらくふたりは何かよからぬことをしていたに違いないこと。そしてそれらのことから結論すると、この人間社会のまんなかにおいて、子供とも娘とも婦人ともつかないふたりの悲惨な者が、不潔なしかも罪のない怪物の一種が、困窮のために作り出されたこと。それをマリユスは了解した。
悲しむべき者ら、彼らには名前もなく、年齢もなく、雌雄《しゆう》の性もなく、彼らにとってはもはや善も悪も空名であって、幼年時代を過ぎるや既に世に一物をも所有せず、自由をも徳義をも責任をも有しない。昨日開いて今日ははや色あせたその魂は、往来に投げ捨てられ泥にしぼんでただ車輪にひかれるのを待つばかりの花のようなものである。
さはあれ、驚いた痛ましい目でマリユスが見守っているうちにも、若い娘は幽霊のように臆面《おくめん》もなく室《へや》の中を歩き回っていた。自分の肉体が露わであることなどは少しも気にしないで、室の中を騒ぎ回った。時とすると、破れ裂け取り乱したシャツはほとんど腰の所までたれ下がった。それでも彼女は、椅子《いす》を動かしたり、戸棚《とだな》の上にある化粧道具をかき回したり、マリユスの服にさわってみたりして、すみずみまで漁《あさ》り初めた。
「あら、」と彼女は言った、「鏡があるのね。」
そしてあたかも自分ひとりであるかのように、切れぎれの流行歌やばかな反唱句などを口ずさんだが、しわがれた喉音《こうおん》のためにそれも悲しげに響いた。しかしそういう厚顔の下にも、言い知れぬ気兼ねと不安と卑下とが見えていた。不作法は一つの恥である。
そういうふうに彼女が室《へや》の中を飛び回り、言わば日の光に驚きあるいは翼を折った小鳥のように飛んでるのを見るくらい、およそ世に痛ましいものはなかった。異なった教育と運命との下にあったならば、その若い娘の快活で自由な態度にも、おそらくある優しみと魅力とがあったであろう。動物のうちにあっては、鳩《はと》に生まれたものが鶚《みさご》と変わることは決してない。そういう変化はただ人間のうちにのみ見られる。
マリユスは思いに沈んで、彼女を勝手にさしておいた。
彼女はテーブルに近づいた。
「ああ、本が!」と彼女は言った。
彼女の曇った目はある光に輝いた。そしていかなる人の感情のうちにもある喜ばしい自慢の念をこめた調子で、彼女は言った。
「あたし読むことができるのよ。」
彼女はテーブルの上に開いてあった一冊の書物を元気よく取り上げて、かなりすらすらと読み下した。
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……ボーデュアン将軍は、旅団の五大隊をもってウーゴモンの城を奪取すべしとの命令を受けぬ、城はワーテルロー平原……の
[#ここで字下げ終わり]
彼女は読むのを止めた。
「ああ、ワーテルロー、あたしそれを知ってるわ。昔の戦争ね。うちのお父《とう》さんも行ったのよ。お父さんは軍人だったのよ。うちの者はみなりっぱなボナパルト党だわ。ワーテルローって、イギリスと戦《いくさ》した所ね。」
彼女は書物を置いて、ペンを取り、そして叫んだ。
「それからまたあたし、書くこともできてよ。」
彼女はペンをインキの中に浸して、マリユスの方へ向いた。
「見たいの? ほら今字を書いて見せるわ。」
そしてマリユスが何か答える間もなく、彼女はテーブルのまん中にあった一枚の白紙へ書いた。
「いぬがいる[#「いぬがいる」に傍点]。」
それからペンを捨てた。
「字は違ってないでしょう。見て下さいよ。あたしたちは学問をしたのよ、妹もあたしも。前からこんなじゃなかったのよ。あたしたちだって……。」
そこで彼女は急に口をつぐんで、どんよりした瞳《ひとみ》をじっとマリユスの上に据え、そして笑い出しながら、あらゆる苦しみをあらゆる皮肉で押さえつけたような調子で言った。
「ふーん!」
そして快活な調子で次の文句を小声で歌い出した。
[#ここから4字下げ]
お腹《なか》がすいたわ、お父さん。
食う物がないよ。
身体《からだ》が寒いわ、お母さん。
着る物がないよ。
[#ここから6字下げ]
震えよ、
ロロット!
泣けよ。
ジャッコー!
[#ここで字下げ終わり]
そういう俗歌を歌い終わるが早いか彼女は叫んだ。
「マリユスさん、あなた時々芝居へ行って? あたし行くのよ。あたしには小さい弟があって、役者たちと友だちなので、時々切符をくれるの。でも向こう桟敷《さじき》はきらいよ。窮屈できたなくて、どうかすると乱暴
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