んが二十万フランの小金《こがね》をわしにくれるとすぐに娘さんを返してあげる。もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。まあざっとこういう筋道だ。」
 捕虜は一言をも発しなかった。ちょっと休んでからテナルディエは言い続けた。
「お聞きのとおり何でもねえことなんだ。お前さんの心次第で何も悪いことは起こりゃあしねえ。うち明けてわしは話したんだ。よくのみ込んでおいてもらいてえと思ってな。」
 彼は言葉を切った。捕虜は口を開こうともしなかった。テナルディエはまた言った。
「家内が帰ってきて、アルーエットは出かけたと言いさえすりゃあ、すぐにお前さんは許してあげる。勝手に家に帰って寝てもいい。ねえ、わしらは別に悪い計画《たくらみ》を持ってやしねえ。」
 恐るべき幻がマリユスの脳裏を過《よ》ぎった。何事ぞ、彼らはその若い娘を奪ってここへは連れてこないのか。あの怪物のひとりがその娘を暗黒のうちに運び去ろうとするのか。いったいどこへ?……そしてもしその娘が果たして彼女であったならば! いや彼女であることは明らかである。マリユスは心臓の鼓動も止まるような気がした。どうしたものであろう。ピストルを打つがいいか。その悪漢どもを皆警官の手に渡してしまうがいいか。しかしそれにしても、あの恐ろしい斧《おの》の男は若い娘を連れてやはり手の届かぬ所に行ってるだろう。マリユスは恐ろしい意味が察せらるるテナルディエの数語を思った。「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば[#「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば」に傍点]、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ[#「わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ」に傍点]。」
 今はもう大佐の遺言のためばかりではなく、また自分の恋のために、愛する人の危険のために、差し控えていなければならないように彼は思った。
 既に一時間以上も前から続いたその恐ろしい情況は一瞬ごとに様子を変えていった。マリユスは勇を鼓して最も悲痛な推測を一々考慮してみた、そして何かの希望をさがし求めたが少しも見い出されなかった。彼の脳裏の騒乱はその巣窟《そうくつ》の気味悪い沈黙と異様な対照をなしていた。
 その沈黙のうちに、階段の所の扉《とびら》が開いてまたしまる音が聞こえた。
 捕虜は縛られながらちょっと身を動かした。
「うちのお上《かみ》だ。」とテナルディエは言った。
 その言葉の終わるか終わらないうちに、果たしてテナルディエの女房が室《へや》に飛び込んできた。まっかになって、息を切らし、あえいで、目を光らしていた。そしてその大きな両手で一度に両腿《りょうもも》をたたきながら叫んだ。
「嘘《うそ》の住所だ。」
 女房が引き連れていた悪漢が、彼女のあとからはいってきて、またその斧《おの》を取り上げた。
「嘘の住所だと!」テナルディエは鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
 女房は言った。
「だれもいやしない。サン・ドミニク街十七番地にユルバン・ファーブルなんて者はいやしない。だれにきいても知ってる者なんかいないよ。」
 彼女は息をつまらして言葉を切ったが、それからまた続けて言った。
「テナルディエ、お前さんはその爺《じい》さんにばかにされたんだよ。あまりお前さんも人がよすぎるじゃないか。私ならほんとにそいつの頤を四つ裂きにでもしておいてかかるんだがね。意地の悪いことをしやがったら、生きてるまま煮たててやるんだがね。そうすりゃあ、きっと本当のことを言って娘のおる所や金を隠してる所を吐き出してしまったに違いない。私だったらそういうふうにやってのけるよ。男なんて女よりはよほどばかだって言うが、まったくだ。十七番地なんかにはだれもいやしない。大きな門があるきりなんだ。サン・ドミニク街にはファーブルなんて者はいやしない。大急ぎで馬をかけさせるし、御者には祝儀をやるし、いろいろなことをしてさ。門番の男にも聞いたし、しっかり者らしいそのお上さんにも聞いたが、そんな人はてんで知らないじゃないかね。」
 マリユスはほっと息をついた。ユルスュールかあるいはアルーエットか本当の名前はわからないが、とにかく彼女は救われたのだった。
 たけり立った女房が怒鳴りちらしてる間に、テナルディエはテーブルの上に腰掛けた。彼は一言も発しないでそのままの姿勢をして、たれてる右足を振り動かしながら、残忍な夢想に沈んでるような様子で、しばらく火鉢《ひばち》の方を見やっていた。
 ついに彼は、特に獰猛《どうもう》なゆっくりした調子で捕虜に言った。
「嘘《うそ》の住所だと、いったい貴様何のつもりだ。」
「時間を延ばすためだ!」と捕虜は爆発したような声で叫んだ。
 そして同時に彼は縛られた繩《なわ》を揺すった。それは皆切れて
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