リユスは狂喜とともに憤怒の情をさえ覚えた。彼は目の中に彼女の姿を包み込んでいた。その恐ろしい陋屋《ろうおく》のうちの怪物どもの間に、神聖なる彼女を見いだそうとは、夢にも思いがけないことだった。彼は蟇《がま》の間に蜂雀《ほうじゃく》を見るような気がした。
 彼女が出て行った時、彼はただ一つのこときり考えなかった、すなわち、そのあとに従い、その跡をつけ、住所を知るまでは決して離れず、少なくともかく不思議にもめぐり会った以上はもはや決して見失うまいということ。で彼は戸棚《とだな》から飛びおり、帽子を取った。そして扉《とびら》のとっ手に手をかけまさに外に出ようとした時、ふと足を止めて考えた。廊下は長く、階段は急であり、その上ジョンドレットは饒舌《おしゃべり》だから、ルブラン氏はまだおそらく馬車に乗ってはいないだろう。もしルブラン氏が、廊下でか階段でかまたは門口の所でふり返って、この家の中に自分がいることに気づきでもしようものなら、きっと警戒して再び自分からのがれようとするだろう。そしてそれでまた万事おしまいである。何としたらいいものか。少し待つとしようか。しかし待ってる間に、馬車は走り去ってしまうかも知れない。マリユスはまったく困惑した。がついに彼は危険をおかして室《へや》を出た。
 もう廊下にはだれもいなかった。彼は階段の所へ走っていった。階段にもだれもいなかった。大急ぎで階段をおり、大通りに出ると、ちょうど馬車がプティー・バンキエ街の角《かど》を曲がって市中へ帰ってゆくのが見えた。
 マリユスはその方へ駆けていった。大通りの角までゆくと、ムーフタール街を走り去る馬車がまた見えた。しかしもうよほど遠くなので、とうてい追っつけそうもなかった。後を追って駆け出す、そんなこともできない。その上、足にまかして追っかける者があれば馬車の中からよく見えるので、老人はすぐに自分だということに気づくに違いない。しかしちょうどその時、思いがけなくもふとマリユスは、官営馬車が空《から》のままで大通りを過ぎるのを認めた。今はもう、その馬車に乗って先の馬車の跡をつけるよりほかに方法はなかった。そうすれば安心で確実でまた危険の恐れもない。
 マリユスは手を挙げて御者を呼びとめ、そして叫んだ。「時間ぎめで!」
 マリユスはえり飾りもつけていず、ボタンの取れた古い仕事服を着、シャツは胸の所の一つの襞《ひだ》が裂けていた。
 御者は馬を止め、目をまばたき、マリユスの方へ左の手を差し出しながら、人差し指と親指との先を静かにこすってみせた。
「何だ?」とマリユスは言った。
「先にお金をどうか。」と御者は言った。
 マリユスは十六スーきり持ち合わせがないことを思い出した。
「いくらだ?」と彼は尋ねた。
「四十スー。」([#ここから割り注]訳者注 四十スーは二フランに当たる[#ここで割り注終わり])
「帰ってきてから払おう。」
 御者は何の答えもせず、ただラ・パリス([#ここから割り注]訳者注 素朴な小唄[#ここで割り注終わり])の節《ふし》を口笛で吹いて、馬に鞭《むち》を当てて行ってしまった。
 マリユスは茫然《ぼうぜん》として馬車が行ってしまうのをながめた。持ち合わせが二十四スー足りなかったために、喜悦と幸福と愛とを失ってしまい、再び暗夜のうちに陥ってしまった。せっかく目が見えてきたのにまた見えなくなってしまった。彼は苦々《にがにが》しく、そして実際深い遺憾の念をもって、その朝あのみじめな娘に与えた五フランのことを思った。その五フランさえ持っていたら、救われ、よみがえり、地獄と暗黒とから脱し、孤独や憂愁やひとり身から脱していたであろう。自分の運命の黒い糸をあの黄金色《こがねいろ》の美しい糸に結び合わせることができたであろう。しかるにその美しい糸口は、彼の目の前にちょっと浮かび出たばかりで、また再び断ち切れてしまったのである。彼は絶望して家に帰った。
 ルブラン氏は晩に再びやって来ると約束した、そしてその時こそはうまく跡をつけてやろう、そう彼は考え得たはずである。しかし先刻夢中になってのぞいている時、彼はその約束の言葉をもほとんど聞き取り得なかったのである。
 家の階段を上ってゆこうとした時彼は、大通りの向こう側、バリエール・デ・ゴブラン街の寂しい壁の所に、「慈善家」の外套《がいとう》にくるまったジョンドレットの姿を認めた。ジョンドレットは他のひとりの男に口をきいていた。その男は場末の浮浪人[#「場末の浮浪人」に傍点]とも言い得るような人相の悪い奴《やつ》らのひとりだった。そういう奴らは、曖昧《あいまい》な顔つきをし、怪しい独語を発し、悪いことをたくらんでいそうな風付きであって、普通は昼間眠っているもので、それから推すと夜分に仕事をしてるものらしい。
 ふたりは立ちなが
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