の一家にはそんな者はひとりもありません。私は娘どもをりっぱに教育したいのでありまして、ただ正直になるように、温順になるように、尊い神様を信ずるようにと願っております。――それから旦那、りっぱな旦那様、私どもが明日どんなことになるかは御承知でもございますまい。明日は二月四日で、いよいよの日でございます。家主に待ってもらった最後の日でございます。もし今晩払いをしませんと、明日は、姉娘と、私と、熱のある家内と、けがをしている子供と、私ども四人はここから外に、往来に、追い出されてしまいまして、宿もなく、雨の中を、雪の中を、路頭に迷わなければなりません。かようなわけでございます、旦那様。四期分の、一年分の、借りがあるのでございまして、六十フランになっております。」
 ジョンドレットは嘘《うそ》を言った。家賃は四期で四十フランにしかならないはずであるし、またマリユスが二期分を払ってやってから六カ月しかたっていないので、四期分の借りができてるわけもなかった。
 ルブラン氏はポケットから五フランを取り出して、それをテーブルの上に置いた。
 ジョンドレットはそのわずかな暇に姉娘の耳にささやいた。
「ばかにしてる、五フランばかりでどうしろっていうのか。椅子《いす》とガラスの代にもならねえ。せめて入費《いりめ》ぐらいは置いてくがあたりまえだ。」
 その間にルブラン氏は、青いフロックの上に着ていた大きな褐色《かっしょく》の外套《がいとう》をぬいで、それを椅子の背に投げかけた。
「ファバントゥー君、」と彼は言った、「私は今五フランきり持ち合わせがないが、一応娘を連れて家に帰り、今晩またやってきましょう。払わなければならないというのは今晩のことですね……。」
 ジョンドレットの顔は不思議な色に輝いた。彼は元気よく答えた。
「さようでございます、尊い旦那様《だんなさま》。八時には家主の所へ持って参らなければなりません。」
「では六時にやってきます、そして六十フラン持ってきましょう。」
「ほんとに御親切な旦那様!」とジョンドレットは夢中になって叫んだ。
 そしてすぐに彼は低く女房にささやいた。
「おい、あいつをよく見ておけよ。」
 ルブラン氏は若い美しい娘の腕を取って、扉《とびら》の方へ向いた。
「では今晩また、皆さん。」と彼はいった。
「六時でございますか。」とジョンドレットはきいた。
「正六時に。」
 その時、椅子《いす》の上にあった外套《がいとう》がジョンドレットの姉娘の目に止まった。
「旦那《だんな》、」と彼女は言った、「外套をお忘れになっています。」
 ジョンドレットは恐ろしく肩をそばだて、燃えるような目つきで娘をじろりとにらめた。
 ルブラン氏はふり返って、ほほえみながら答えた。
「忘れたのではありません。それは置いてゆくのです。」
「おお私の恩人様、」とジョンドレットは言った、「実に情け深い旦那様、私は涙がこぼれます。せめて馬車までお供さして下さいませ。」
「外に出るなら、」とルブラン氏は言った、「その外套をお着なさい。ひどく寒いですよ。」
 ジョンドレットは二言と待たなかった。彼はすぐにその褐色《かっしょく》の外套を引っかけた。
 そしてジョンドレットが先に立って、三人は室《へや》を出て行った。

     十 官営馬車賃――一時間二フラン

 マリユスはその光景をすっかりながめた。しかし実際は何もはっきり見て取ることはできなかった。彼の目は若い娘の上に据えられており、彼の心は、彼女がその室に一歩ふみ込むや否や、言わば彼女をつかみ取り彼女をすっかり包み込んでしまっていた。彼女がそこにいる間、彼はまったく恍惚《こうこつ》たる状態にあって、あらゆる物質的の知覚を失い、全心をただ一点に集注していた。彼がながめていたものはその娘ではなくて、繻子《しゅす》の外套《がいとう》とビロードの帽子とをつけた光明そのものだった。シリウス星が室《へや》の中にはいってきたとしても、彼はそれほど眩惑《げんわく》されはしなかったであろう。
 若い娘が包みを開き、着物と毛布とをそこにひろげ、病気の母親に親切な言葉をかけ、けがした娘にあわれみの言葉をかけてる間、彼はその一挙一動を見守り、その言葉を聞き取ろうとした。その目、その額、その美貌《びぼう》、その姿、その歩き方を彼は皆知っていたが、その声の音色はまだ知らなかった。かつてリュクサンブールの園でその数語を耳にしたように思ったこともあったが、それも確かにそうだとはわからなかった。そしてもし彼女の声をきくならば、その音楽の響きを少しでも自分の心のうちにしまい込むことができるならば、十年ほど自分の生命を縮めても惜しくないとまで思った。けれどもジョンドレットの哀願の声やラッパのような嘆声に、彼女の声はすっかり消されてしまった。マ
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