そう、」と彼女は言った、「これは弥撒《ミサ》へゆくお爺《じい》さんへやる手紙よ。ちょうど時間だわ。あたし持ってってこよう。朝御飯が食べられるだけのものをもらえるかも知れない。」
 それから彼女は笑い出してつけ加えた。
「今日の朝御飯はあたしたちにとっては何だかあなたにわかって? 一昨日《おととい》の朝御飯と、一昨日の晩御飯と、昨日《きのう》の朝御飯と昨日の晩御飯と、それだけをみんないっしょに今朝《けさ》食べることになるのよ。かまやしない、お腹《なか》がはち切れるほど食べてやるわ。」
 それでマリユスは、その不幸な娘が自分の所へ求めにきたものが何であったかを思い出した。
 彼はチョッキの中を探ったが、何もなかった。
 娘はしゃべり続けた。あたかもマリユスがそこにいるのも忘れてしまったがようだった。
「あたしはよく晩に出かけていくの。何度も帰ってこないこともあるわ。ここに来る前、去年の冬は、橋の下に住んでたのよ。冷え切ってしまわないように皆重なり合ってたわ。妹なんか泣いててよ。水ってほんとに悲しいものね。身を投げようかと思ったが、でもあまり寒そうだからといつも思い返したの。出かけたい時はすぐにひとりで出かけてよ。溝《みぞ》の中に寝ることもよくあるわ。夜中に街路《まち》を歩いてると、木が首切り台のように見えたり、大きい黒い家がノートル・ダームの塔のように見えたり、また白い壁が川のように見えるので、おや向こうに水があるって思うこともあるのよ。星がイリュミネーションの燈《あかり》のように見えて、ちょうど煙が出たり、風に吹き消されたりしてるようで、また耳の中に馬が息を吹き込んでるような気がしてびっくりするのよ。夜中なのに、バルバリーのオルガンの音だの、製糸工場の機械の音だの、何だかわからない種々なものが聞こえてよ。だれかが石をぶっつけるようなの、夢中に逃げ出すの、あたりがぐるぐる回り出すの、何もかも回り出すのよ。何にも食べないでいると、ほんとに変なものよ。」
 そして彼女は我を忘れたようにマリユスをながめた。
 マリユスは方々のポケットを探り回したあげく、ついに五フランと十六スーを集め得た。それが現在彼の持ってる全部だった。「まあこれで今日の夕食は食えるし、明日《あす》のことはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。そして十六スーを取って置き、五フランを娘に与えた。
 娘はその貨幣をつかんだ。
「まあ有り難い、」と彼女は言った、「太陽《おひさま》が照ってる!」
 そしてあたかもその太陽が、彼女の頭の中の怪しい言葉の雪崩《なだれ》を解かす力でも持ってたかのように、彼女は言い続けた。
「五フラン! 光ってるわ、王様だわ、このでこの中にね。しめだわ。あなたは親切なねんこだわ。あたしあなたにぞっこんでよ。いいこと、どんたくだわ。二日の間は、灘《なだ》と肉とシチュー、たっぷりやって、それに気楽なごろだわ。」
 そんな訳のわからぬことを言って、シャツを肩に引き上げ、マリユスにていねいにおじぎをし、それから手で親しげな合い図をし、そして扉《とびら》の方へ行きながら言った。
「さようなら。でもとにかく、あのお爺《じい》さんをさがしに行ってみよう。」
 出がけに彼女は、ひからびたパンの外皮が戸棚の上の塵《ちり》の中にかびかかっているのを見つけて、それに飛びかかり、すぐにかじりつきながらつぶやいた。
「うまい、堅い、歯が欠けそうだ。」
 それから彼女は出て行った。

     五 運命ののぞき穴

 マリユスはもう五年の間、貧困、欠乏、窮迫のうちに生きていた。しかし彼はまだ本当の悲惨を知らなかったことに気づいた。彼は本当の悲惨を今しがた見たのであった。彼の目の前を通って行ったあの悪鬼こそそれだったのだ。実際、男の悲惨のみを見たとて、まだ本当のものを見たとは言えない、女の悲惨を見なければいけない。女の悲惨のみを見たとてまだ本当のものを見たとは言えない、子供のそれを見なければいけない。
 最後の困窮に達する時、男はまた同時に最後の手段に到着する。ただ彼の周囲の弱き者こそ災いである! 仕事、賃金、パン、火気、勇気、好意、すべてを男は同時に失う。外部に日の光が消えたようになる時、内部には精神の光が消える。その暗黒のうちにおいて彼は、弱い女や子供と顔を合わせる。そして彼らをしいて汚辱のうちにはいらせる。
 その時こそ戦慄《せんりつ》すべきあらゆることが可能になる。絶望をかこむ囲壁はもろく、どこからでも直ちに悪徳や罪悪に通い得る。
 健康、青春、名誉、うら若き肉身の初心なる聖《きよ》き羞恥《しゅうち》、情操、処女性、貞節など、すべて魂の表皮は、手段を講ずる模索によって、汚賤《おせん》に出会いそれになれゆく模索によって、悲惨なる加工を受くる。父、母、子供、兄弟、姉妹、男、女、
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