六十ピストルを贈ってみた。しかしマリユスはいつも必要がないと言ってそれを送り返した。
 前に述べた心の革命が彼のうちに起こった時も、彼は父に対する喪服をなおつけていた。その時以来彼はもうその黒服を脱がなかった。しかし衣服の方が彼から去っていった。ついにはもう上衣がなくなった。次にズボンもなくなりかけていた。いかんとも術《すべ》はなかった。ただ彼もいくらかクールフェーラックに力を貸してやったことがあるので、クールフェーラックは彼に古い上衣を一枚くれた。マリユスはある門番に頼んで三十スーでそれを裏返してもらった。それで新しい一枚の上衣となった。しかしその地色は緑だった。それからは日が暮れなければマリユスは外に出なかった。夜になると上衣の緑は黒となった。常に喪服をつけていたいと願って、彼は夜のやみを身にまとったのである。
 そういう境涯を通って、彼はついに弁護士の資格を得た。彼は表面上クールフェーラックの室《へや》に住んでることにした。それはかなりの室で、そこには取って置きの幾冊かの法律の古本もあり、少しばかりの小説の端本《はほん》で補われ、弁護士としての規定だけの文庫には見られた。手紙も一切クールフェーラックの所へあてさした。
 マリユスは弁護士となった時、冷ややかではあるが恭順と敬意とをこめた手紙を書いて祖父に報じた。ジルノルマン氏は身を震わしながらその手紙を取り、それを読み下し、そして四つに引き裂いて屑籠《くずかご》に投げ込んだ。それから二、三日してジルノルマン嬢は、父がただ一人室の中で何か声高に言ってるのを聞いた。そういうことは、彼がきわめて激昂《げっこう》した時いつも起こることだった。ジルノルマン嬢は耳を傾けた。老人はこう言っていた。「貴様がばかでさえなければ、同時に男爵で弁護士であるなどということができないのが、わかるべきはずだ。」

     二 貧困のマリユス

 貧窮も他の事と同じである。ついにはたえ得らるるものとなる。いつかはある形を取り、それに固まってゆく。人は貧窮にも生長する、換言すれば、微弱ではあるがしかし生きるには十分な一種の仕方で発達してゆく。マリユス・ポンメルシーの生活がいかなる具合に整えられていったかは、次のとおりである。
 彼は最も狭い峠を越した。前にひらけた峡路はいくらか広くなった。勤勉と勇気と忍耐と意思とをもって、彼はついに年に約七百フランを働き出すようになった。彼はドイツ語と英語とを学んだ。クールフェーラックから友人の本屋に関係をつけてもらって、その文学部の方につまらぬ端役[#「端役」に傍点]を勤めることになった。広告文をつづり、新聞の翻訳をし、出版物に注を入れ、伝記を編み、その他種々のことをやった。それでともかく毎年、七百フランはきまって収入があった。それで生活を立てた。必ずしもひどい生活ではなかった。どういうふうにして? それは次に述べよう。
 マリユスは年三十フランで、ゴルボー屋敷のきたない室《へや》を一つ借り受けた。書斎とは言っていたが暖炉もなく、道具とてはただ是非とも必要なものだけしかなかった。そのわずかな道具は自分のものだった。毎月三フランずつ借家主の婆さんに与えて、室を掃除《そうじ》してもらい、毎朝少しの湯と新しい鶏卵を一つと一スーのパンとを持ってきてもらった。彼はそのパンと卵とで昼食をすました。卵の高い安いによってその昼食は二スーから四スーまでの間を高低した。晩の六時にサン・ジャック街に出ていって、マテュラン街の角《かど》にある版画商バッセの店と向き合ったルーソーという家で夕食をした。スープは取らなかった。食べるのは、六スーの肉の一皿、三スーの野菜の半皿、三スーのデザート。それからまた三スーで随意のパン。葡萄酒《ぶどうしゅ》の代わりには水を飲んだ。その頃はいつもでっぷりふとってまだ色艶《いろつや》のよかったルーソーの上《かみ》さんが、いかめしく帳場に陣取っていたが、彼はそこで金を払い、給仕に一スーを与えると、上さんは笑顔を見せてくれた。それから彼はそこを出た。十六スーで笑顔と夕食とを得るのだった。
 そのルーソーの飲食店では、酒を飲むよりも水を飲む者の方が多く、料理屋《レストーラン》というよりもむしろ休憩所と言ったほどの所だった。今日はもうなくなっている。主人はおもしろい綽名《あだな》を持っていて、水のルーソー[#「水のルーソー」に傍点]と呼ばれていた。
 そういうふうにして、四スーで昼食をし十六スーで夕食をして、食べるのに一日二十スーだけかかった。それで一年に三百六十五フランとなった。それに室代《へやだい》が三十フラン、婆さんに三十六フラン、その他少しの雑費。合計四百五十フランで、マリユスは食事と室と雑用とをすました。それから衣服が百フラン、シャツが五十フラン、洗たくが五十
前へ 次へ
全128ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング