なかった。七十フランになっていた。
「十フラン残った。」とマリユスは言った。
「大変だぞ、」とクールフェーラックは言った、「英語を学ぶ間に五フランを食い、ドイツ語を学ぶ間に五フランを食ってしまう。語学を早くのみ込んでしまうか、百スーをゆっくり食いつぶすかだ。」
そうこうするうちに、悲しい場合になるとかなり根が親切なジルノルマン伯母《おば》は、マリユスの宿をかぎつけてしまった。ある日の午前、マリユスが学校から帰って来ると、伯母の手紙と、密封した箱にはいった六十ピストル[#「六十ピストル」に傍点]すなわち金貨六百フランとが、室《へや》に届いていた。
マリユスはうやうやしい手紙を添えて、三十のルイ金貨を伯母のもとへ返してやった。生活の方法を得たし今後決してさしつかえない程度にはやってゆけると彼は書いた。その時彼にはただ三フラン残ってるのみだった。
伯母《おば》は祖父をますます怒らせはしないかを気づかって、その拒絶を少しも知らせなかった。その上祖父は言っておいたのである、「あの吸血児のことは決して私の前で口にするな。」
マリユスはそこで借金をしたくなかったので、ポルト・サン・ジャックの宿を引き払った。
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第五編 傑出せる不幸
一 窮迫のマリユス
マリユスにとって生活は苦しくなった。自分の衣服と時計とを食うのは大したことではない。彼はいわゆる怒った[#「怒った」に傍点]牝牛《めうし》という名状すべからざるものを食ったのである([#ここから割り注]訳者注 怒ったる牝牛を食うとは困窮のどん底に達するの意[#ここで割り注終わり])。それは実に恐るべきもので、一片のパンもない日々、睡眠のない夜々、蝋燭《ろうそく》のない夕、火のない炉、仕事のない週間、希望なき未来、肱《ひじ》のぬけた上衣《うわぎ》、若い娘らに笑われる古帽子、借料を払わないためしめ出される夕の戸、門番や飲食店の主人から受くる侮辱、近所の者の嘲《あざけ》り、屈辱、踏みにじられる威厳、選り好みのできない仕事、嫌悪《けんお》、辛苦、落胆、などあらゆるものを含んでいる。そしてマリユスは、いかにして人がそれらを貪《むさぼ》り食うか、いかにしばしば人はそれらのもののほかのみ下すべきものがないか、それを学んだのである。愛を要するがゆえに自尊をも要する青春の頃において、服装の賤《いや》しいゆえにあざけられ、貧しいゆえに冷笑されるのを、彼は感じた。いかめしい矜持《きょうじ》に胸のふくれ上がるのを覚ゆる青年時代において、彼は一度ならず穴のあいた自分の靴の上に目を落としては、困窮の不正なる恥辱と痛切なる赤面とを知った。それは驚くべき恐るべき試練であって、それを受くる時、弱き者は賤劣《せんれつ》となり強き者は崇高となる。運命があるいは賤夫をあるいは半神を得んと欲する時、人を投ずる坩堝《るつぼ》である。
なぜなれば、かえって小さな奮闘のうちにこそ多くの偉大なる行為がなされる。窮乏と汚行との必然の侵入に対して、影のうちに一歩一歩身をまもる執拗《しつよう》な人知れぬ勇気があるものである。何人にも見られず、何らの誉れも報いられず、何らの歓呼のラッパにも迎えられぬ、気高い秘密な勝利があるものである。生活、不幸、孤立、放棄、貧困、などは皆一つの戦場であり、またその英雄がある。それは往々にして、高名なる英雄よりもなお偉大なる人知れぬ英雄である。
堅実にして稀有《けう》なる性格がかくしてつくり出さるる。ほとんど常に残忍なる継母である困窮は時として真の母となる。窮乏は魂と精神との力を産み出す。窮迫は豪胆の乳母《うば》となる。不幸は大人物のためによき乳となる。
苦しい生活のある場合には、マリユスは自ら階段を掃き、八百屋でブリーのチーズを一スーだけ買い、夕靄《ゆうもや》のおりるのを待ってパン屋へ行き、一片のパンをあがなって、あたかも盗みでもしたようにそれをひそかに自分の屋根部屋へ持ち帰ることもあった。時とすると、意地わるな女中らの間に肱《ひじ》で小突かれながら、片すみの肉屋にひそかにはいってゆく、ぎごちない青年の姿が見えることもあった。彼は小わきに書物を抱え、臆病《おくびょう》らしいまた気の立った様子をして、店にはいりながら汗のにじんだ額から帽子をぬぎ、あっけにとられてる肉屋の上《かみ》さんの前にうやうやしく頭を下げ、小僧の前にも一度頭を下げ、羊の肋肉《ろくにく》を一片求め、六、七スーの金を払い、肉を紙に包み、書物の間にはさんでわきに抱え、そして立ち去っていった。それはマリユスだった。彼はその肋肉を自ら煮、それで三日の飢えをしのぐのであった。
初めの日は肉を食い、二日目はその脂《あぶら》を吸い、三日目にはその骨をねぶった。
幾度も繰り返してジルノルマン伯母《おば》は、
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