n車の中で二晩過ごしたためにすっかり疲れていて、水泳場に一時間ばかり行って不眠を補いたくなったので、急いで自分の室《へや》に上がって行き、旅行用のフロックと首にかけていた黒い紐《ひも》とを脱ぐが早いか、すぐに水泳場へ出かけて行った。
 ジルノルマン氏は健康な老人の例にもれず朝早くから起きていて、マリユスが帰ってきた音をきいた。それで老年の足の及ぶ限り大急ぎで、マリユスの室《へや》がある上の階段を上がっていった。そしてマリユスを抱擁し、抱擁のうちに種々尋ねてみて、どこから帰ってきたかを少し知ろうと思った。
 しかし八十以上の老人が上がって来るのよりも、青年が下りてゆく方が早かった。ジルノルマン老人が屋根部屋《やねべや》にはいってきた時には、マリユスはもうそこにいなかった。
 寝床はそのままになっており、その上には何の気もなしに、フロックと黒い紐《ひも》とが散らかしてあった。
「この方がよい。」とジルノルマン氏は言った。
 そして間もなく彼は客間にはいってきた。そこには既に姉のジルノルマン嬢が席についていて、例の車の輪を刺繍《ししゅう》していた。
 ジルノルマン氏は得意げにはいってきたのである。
 彼は片手にフロックを持ち、片手に首のリボンを持っていた。そして叫んだ。
「うまくいった。これで秘密が探れる。底の底までわかる。悪戯者《いたずらもの》の放蕩《ほうとう》に手をつけることができる。種本を手に入れたようなものだ。写真もある。」
 実際、メダルに似寄った黒い粒革《つぶかわ》の小箱がリボンに下がっていた。
 老人はその小箱を手に取って、しばらく開きもしないでじっとながめた。あたかも食に飢えた乞食《こじき》が自分のでないりっぱなごちそうが鼻の先にぶら下がってるのをながめるような、欲望と喜悦と憤怒との交じってる様子だった。
「これは確かに写真だ。こんなことを私《わし》はよく知っている。胸にやさしくつけてるものだ。実にばかげた者どもだ。見るもぞっとするような恐ろしい下等な女に違いない。近ごろの若い者はまったく趣味が堕落してるからね。」
「まあ見ようではありませんか、お父さん。」と老嬢は言った。
 ばねを押すと小箱は開いた。中にはただ、ていねいに畳んだ一片の紙があるのみだった。
「同じことは一つことだ。」と言ってジルノルマン氏は笑い出した。「これもわかってる。艶文《いろぶみ》というやつだ。」
「さあ読んでみましょう。」と伯母《おば》は言った。
 そして彼女は眼鏡《めがね》をかけた。ふたりはその紙を開いて、次のようなことを読んだ。

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予が子のために[#「予が子のために」に傍点]――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって購《あがな》いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこれを取りこれを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべし。
[#ここで字下げ終わり]

 父と娘とが受けた感情は、とうてい言葉には尽し難い。彼らは死人の頭から立ち上る息吹《いぶき》で凍らされでもしたように感じた。互いに一言もかわさなかった。ただジルノルマン氏は自分自身に話しかけるように低い声で言った。
「あのサーベル奴《め》の字だ。」
 伯母はその紙を調べ、種々ひっくり返してみ、それから小箱の中にしまった。
 同時に、青い紙にくるんだ小さな長方形の包みが、フロックのポケットから落ちた。ジルノルマン嬢はそれを拾い上げて、青い紙を開いてみた。それはマリユスの百枚の名刺だった。彼女はその一枚をジルノルマン氏に差し出した。彼は読んだ、「男爵マリユス[#「男爵マリユス」に傍点]・ポンメルシー[#「ポンメルシー」に傍点]。」
 老人は呼び鈴を鳴らした。ニコレットがやってきた。ジルノルマン氏はリボンと小箱とフロックとを取り、それらを室《へや》のまんなかに、床《ゆか》にたたきつけた。そして言った。
「そのぼろ屑《くず》を持ってゆけ。」
 一時間ばかりの間はまったく深い沈黙のうちに過ごされた。老人と老嬢とは互いに背中合わせにすわり込み、各自に、そしてたぶんは同じことを、思いめぐらしていた。終わりにジルノルマン伯母《おば》は言った。

「よいざまだ!」
 やがてマリユスが現われた。戻ってきたのである。そして室の閾《しきい》をまたがないうちに、祖父が自分の名刺を一枚手に持ってるのを見た。祖父は彼の姿を見るや、何かしらてきびしい市民的な冷笑的な高圧さで叫んだ。
「これ、これ、これ、これ、お前は今は男爵だな。お祝いを言ってあげよう。いったい何という訳だ?」
 マリユスは少し顔を赤らめて答えた。
「私は父の子だという訳です。」
 ジルノルマン氏は冷笑をやめて、きびしく言った。
「お前の父というのは、私だ。」
「私の父は、」とマリユスは目を伏せ厳
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