トいた。しかし一度その橋が落つるや、ふたりの間には深淵《しんえん》が生じた。それからまた特に、愚かな動機によって彼を無慈悲にも大佐から引き離し、かくて父から子供を奪い子供から父を奪ったのは、実にジルノルマン氏であったことを思うと、マリユスは言うべからざる反撥《はんぱつ》の情を覚えた。
 父に対する愛慕のために、マリユスはほとんど祖父を嫌悪《けんお》するに至った。
 けれどもそれらのことは、前に言ったとおり、外部には少しも現われなかった。ただ彼はますます冷淡になって、食事も簡単にすまし、家にいることも少なくなった。伯母《おば》がそれについて小言《こごと》を言った時、彼はごくおとなしくしていて、その口実に、勉強だの学校の講義だの試験だの講演会だの種々なことを持ち出した。祖父の方はその一徹な見立てを少しも変えなかった。「女のことだ。よくわかってる。」
 マリユスは時々家をあけた。
「あんなにしてどこへ行くのでしょう。」と伯母は尋ねた。
 その不在はいつもごくわずかな時日だったが、そのうちに彼はある時、父が残したいいつけを守らんために、モンフェルメイュに行って、昔のワーテルローの軍曹《ぐんそう》である旅亭主テナルディエをさがした。しかしテナルディエは破産して、宿屋は閉ざされ、どうなったか知ってる者はいなかった。その探索のために、マリユスは四日間家をあけた。
「確かにこれは調子が狂ってきたんだな。」と祖父は言った。
 彼がシャツの下に何かを黒いリボンで首から胸にかけてるのを、ふたりは見たようにも思った。

     七 ある艶種《つやだね》

 ひとりの槍騎兵《そうきへい》のことを前にちょっと述べておいた。
 それはジルノルマン氏の父方《ちちかた》の系統で、甥《おい》の子に当たり、一族の外にあって、いずれの家庭からも遠く離れ、兵営の生活を送っていた。そのテオデュール・ジルノルマン中尉は、いわゆるきれいな将校たるすべての条件をそなえていた。「女のような身体つき」をし、揚々たる態度でサーベルを引きずり、髭《ひげ》を上に巻き上げていた。時にパリーに来ることがあったが、それもごくまれで、マリユスはかつて会ったことがないくらいだった。ふたりの従兄弟《いとこ》は互いに名前だけしか知ってはいなかった。前に言ったと思うが、テオデュールはジルノルマン伯母《おば》の気に入りだった。そしてそれも、常に顔を合わしていないからに過ぎなかった。常に会っていないといろいろよく思われるものである。
 ある日の朝姉のジルノルマン嬢は、その平静さのうちにもさすがに興奮して、自分の室《へや》に戻ってきた。マリユスがまた祖父に向かって、ちょっと旅をしたいと申し出たのである。しかもすぐその晩にたちたいと言った。「行っておいで、」と祖父は答えた。そしてジルノルマン氏は額の上まで両の眉《まゆ》を上げながら、ひとりして言った、「また家をあけるんだな。」それでジルノルマン嬢は非常に心痛して自分の室に上ってゆきながら階段の所で、「あまりひどい!」と憤慨の言葉をもらし、「だがいったいどこへ行くんだろう?」と疑問の言葉をもらした。何か道ならぬ艶事《つやごと》、ある影の中の女、ある媾曳《あいびき》、ある秘密、そういうことに違いないと彼女は思い、少しばかり探ってみるのも当然だと考えた。秘密を探って味わうことは、悪事を最初にかぎ出すのと同じ趣味で、聖《きよ》い心の者もそれに不快を覚えないものである。熱心な信仰の人の心のうちにも、汚れたる行ないに対する好奇心があるものである。
 それで彼女は、事情を知りたいという漠然《ばくぜん》とした欲望にとらわれた。
 平素の落ち着きにもかかわらず、多少不安なその好奇心をまぎらすために、彼女は自分の技芸のうちに逃げ込んで刺繍《ししゅう》を初めた。それは車の輪がたくさんにある帝政および復古時代の刺繍の一つで、綿布の上に綿糸でなすのだった。退屈な仕事に頑固《がんこ》な女工という形である。そうして彼女は幾時間もの間|椅子《いす》にすわりきりでいた。すると扉《とびら》が開いた。ジルノルマン嬢は顔を上げた。中尉のテオデュールが前に立っていて、軍隊式の礼をしていた。彼女は喜びの声を上げた。お婆さんであり、似而非貞女《えせていじょ》であり、信者であり、伯母《おば》であっても、自分の室《へや》に一人の槍騎兵《そうきへい》がはいって来るのを見ては、うれしからざるを得ないわけである。
「まあ、テオデュール!」と彼女は叫んだ。
「ちょっと通りかかりましたので。」
「まあ初めに……。」
「ええ今!」とテオデュールは言った。
 そして彼は伯母を抱擁した。ジルノルマン伯母は机の所へ行って、その抽出《ひきだ》しをあけた。
「少なくも一週間くらいは泊まってゆくんでしょうね。」
「いえ、今晩帰りま
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