ッられた。彼は感きわまり、身を震わし、息をあえいだ。とにわかに、心のうちに何がありまた何に動かされてるのかを自ら知らないで、彼は立ち上がり、両腕を窓の外に差し伸ばし、陰影を、静寂を、暗黒なる無窮を、永劫《えいごう》の広漠《こうばく》を、じっとながめ、そして「皇帝万歳!」を叫んだ。
その瞬間以来、いっさいが決定した。コルシカの食人鬼――簒奪者《さんだつしゃ》――暴君――自分の姉妹に愛着した怪物――ルマタ([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンがひいきにした俳優[#ここで割り注終わり])の教えを受けた道化役者――聖地ジャファの攪乱者《かくらんしゃ》――猛虎――ブオナパルテ――すべてそれらは消散してしまい、そのあとには彼の頭の中に漠然たるしかも光り輝く光明が現われて、そこには届き難い高みに、シーザーの大理石像の青白い幻が光っていた。皇帝は彼の父にとっては、人々の賛嘆し献身する親愛なる将帥にすぎなかった。しかしマリユスにとっては、それ以上の何かであった。世界統一の業をローマ人の一団より継承するフランス人の一団を建設すべく、使命を帯びたる者であった。破壊の驚くべき建造者であり、シャールマーニュ、ルイ十一世、アンリ四世、リシュリユー、ルイ十四世、公安委員会、などの後継者であった。またもとより、汚点や欠点や罪悪をも有したであろう。換言すれば人間であったであろう。しかしその欠点のうちにもおごそかであり、その汚点のうちにも光り輝き、その罪悪のうちにも強力であった。あらゆる国民をしてフランスを「大国民」なりと言わしめるため、天より定められた人であった。否なおそれ以上であった。手に保つ剣によってヨーロッパを征服し、放射する光によって世界を征服したる、フランス自身の権化であった。マリユスは常に辺境に突っ立って未来をまもる赫々《かくかく》たる映像を、ボナパルトのうちに認めた。専制君主ではあるがしかし執政官であり、共和より生まれて革命の結末をつける専制君主であった。イエスが神人であるごとく、彼にとってはナポレオンは民衆人であった。
新たに一宗教にはいった者のように、明らかにその帰依は彼を酔わしてしまった。彼はそこに飛び込んで執着し、あまりに深入りしすぎた。それは彼の性質上、やむを得なかった。一度坂道にさしかかると、途中でふみ止まることがほとんどできなかった。そして剣に対する熱狂は彼をとらえ、その思想に対する心酔と頭の中でからみ合った。彼は自ら気づかずして、天才とともにそして天才と一体になって、力を賛美した。言い換えれば、彼は自ら知らずして、偶像崇拝の二つの室《へや》の中に身を置いた、一方は神性なるもの、一方は獣性なるもの。多くの点について、彼はなお誤った方向をたどっていた。彼はすべてを承認した。人は真理の方へ進みながら途中|誤謬《ごびゅう》に出会うことがある。彼は一種の熱烈な誠意を持っていて、すべてを一塊《ひとかたまり》にしてのみ込んだ。新たにはいった道理において、あたかもナポレオンの光栄を測るがように旧制の誤謬を判別しながら、酌量すべき事情をすべて閑却して顧みなかった。
それにしても、驚くべき一歩はふみ出されたのである。昔王政の墜落を見たところに、今はフランスの高揚を見た。彼の方向は変わっていた。昔、西であったものは、今は東になっていた。彼は向きを変えていた。
すべてそれらの革新は、家の人々が気づかぬ間に彼のうちに成し遂げられた。
そのひそかな仕事のうちに、ブールボン派であり過激王党派だった古い外皮をまったく捨ててしまった時、貴族派、一性論派、王党派、の衣を脱した時、革命派となり、深き民主派となり、ほとんど共和派となった時、その時彼はオルフェーヴル川岸のある印刷屋に行って、男爵マリユス[#「男爵マリユス」に傍点]・ポンメルシー[#「ポンメルシー」に傍点]という名前の名刺を百枚注文した。
それは彼のうちに起こった変化の、父を中心としてすべてが引き寄せられるに至った変化の、きわめて当然な結果の一つにすぎなかった。ただ彼はひとりも知己を持たず、どの門番の家へもその名刺をふりまくことができなかったので、それをポケットの中に蔵《しま》い込んだ。
またも一つの自然な結果として、彼は父に近づくに従って、父の記憶に近づくに従って、大佐が二十五年間奮闘してきた事物に近づくに従って、祖父から遠ざかるに至った。前に言ったとおり、ジルノルマン氏のむら気は既に長い前から彼の好むところでなかった。既に彼らの間には、軽佻《けいちょう》なる老人に対する沈重なる青年のあらゆる不調和が存していた。ジェロントの快活はウェルテルの憂鬱《ゆううつ》を憤らせいら立たせるものである。同じ政治的意見と同じ思想とがふたりに共通である間は、それを橋としてマリユスはジルノルマン氏と顔を合わし
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