いう名ではなくなった。マリユスが最もはっきり知り得たのはその一事だった。一種の恐ろしい魅惑にとらえられて彼は、全光景を観察し見おろし得るその場所に釘付《くぎづ》けにされてしまった。そこに彼は、目近にながめた厭《いと》うべきできごとから圧伏されたかのようになって、ほとんど考えることも動くこともできなかった。いかなる事にてもあれただ何か起こることを望むだけで、考えをまとめることもできず、決心を固める術《すべ》も知らずに、彼はただ待っていた。
「いずれにしても、」と彼は思った、「アルーエットというのが彼女のことであるかどうか、これからはっきりわかるだろう。テナルディエの女房がそれをここへ連れて来るだろうから。その時こそ私の心は決するのだ。もし必要であれば、私はこの生命と血潮とをささげても彼女を救ってやる。いかなることがあっても私はあとへは退かない。」
 かくて三十分ばかり過ぎ去った。テナルディエはある暗黒な瞑想《めいそう》のうちに沈み込んでるようだった。捕虜は身動きもしなかった。けれどもマリユスは、少し前から時々間を置いて、捕虜のあたりに何か鋭いかすかな音が聞こえるように思った。
 突然、テナルディエは捕虜に言いかけた。
「ファーブルさん、今すぐに言っといた方がいいようだから聞かしてあげよう。」
 その数語は、これから何か説明が初まるもののように思われた。マリユスは耳を傾けた。テナルディエは言い続けた。
「家内はすぐに帰って来る。そうせかないで待っていなさるがいい。アルーエットはまったくお前さんの娘だろうから、お前さんが家に引き取って置きてえなああたりまえだとわしも思う。だがちょっと聞いておいてもらいましょう。お前さんの手紙を持って、家内は娘さんに会いに行く。ところでさっきごらんのとおり家内へは相当な服装《なり》をさしといたから、すぐに娘さんはついて来るに違いない。そしてふたりは辻馬車《つじばしゃ》に乗るが、その後ろにはわしの仲間がひとり乗ってる。市門の外のある場所には、上等の馬が二匹ついてる小馬車がある。そこまでお前さんの娘は連れてこられるんだ。そこで娘さんは辻馬車からおりて、わしの仲間といっしょに小馬車に乗る。家内はここに帰ってきて報告する、すんだと。娘さんの方には別に悪いことはしねえ。娘さんはある所まで小馬車で連れてゆかれるが、そこにじっとしてるだけだ。そしてお前さ
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