。彼女はとうていそれを知ってるわけはない。なぜなら、ファバントゥーと署名されていた手紙のあて名は、サン[#「サン」に傍点]・ジャック[#「ジャック」に傍点]・デュ[#「デュ」に傍点]・オー[#「オー」に傍点]・パ会堂の慈悲深き紳士殿[#「パ会堂の慈悲深き紳士殿」に傍点]としてあったばかりだから。
 マリユスは室にはいって、後ろに扉《とびら》を押ししめた。
 しかし扉はしまらなかった。ふり返って見ると、半ば開いた扉を一つの手がささえていた。
「何だ? だれだ?」と彼は尋ねた。
 それはジョンドレットの姉娘だった。
「あああなたですか、」とマリユスはほとんど冷酷に言った、「またきたんですか。何か用ですか。」
 娘は何か考えてるらしく、返事もしなかった。朝のような臆面《おくめん》なさはもうなかった。はいってもこないで、廊下の陰の所に立っていた。マリユスはただ半開きの扉《とびら》からその姿を見るだけだった。
「さあどうしたんです。」とマリユスは言った。「何か用があるんですか。」
 娘は陰鬱《いんうつ》な目を上げて彼を見た。その目には一種の光がぼんやりひらめいていた。彼女は彼に言った。
「マリユスさん、あなたはふさいでるわね。どうかしたの?」
「私が!」とマリユスは言った。
「ええ、あなたがよ。」
「私はどうもしません。」
「いいえ。」
「本当です。」
「いいえきっとそうだわ。」
「かまわないで下さい。」
 マリユスはまた扉を押しやったが、娘はなおそれをささえていた。
「ねえ、あなたはまちがってるわ。」と彼女は言った。「あなたはお金持ちでもないのに、今朝《けさ》大変親切にしてくれたでしょう。だから今もそうして下さいな。今朝あたしに食べるものをくれたでしょう、だからこんどは心にあることを言って下さいな。何かあなたは心配してるわ、よく見えてよ。あたしあなたに心配させたくないのよ。どうしたらいいの。あたしでは役に立たなくて? あたしを使って下さいな。何もあなたの秘密を聞こうっていうんじゃないわ、そんなこと言わなくてもいいわよ。でもあたしだって役に立つこともあってよ。あなたの手伝いぐらいあたしにもできるわ、あたしは父さんの用を助けてるんだもの。手紙を持っていくとか、人の家へいくとか、方々尋ね回るとか、居所をさがすとか、人の跡をつけるとか、そんなことならあたしにもできてよ。ねえ、何のこ
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