て、もう寄宿生らしいところはなかった。美とともに趣味も生じたのである。別に取り繕った様子もないが、さっぱりした豊かな優美さをそなえた服装《みなり》をしていた。黒い緞子《どんす》の長衣と同じ布の肩衣と白い縮紗《クレープ》の帽子をつけていた。支那|象牙《ぞうげ》の日がさの柄をいじってる手は、白い手袋を通していかにも繊細なことが察せられ、絹の半靴はその足の小さいことを示していた。近くを通ると、その全身の粧《よそお》いからは若々しいしみ通るようなかおりが発していた。
 老人の方は前と何の変わりもなかった。
 二度目にマリユスが近寄った時、娘は眼瞼《まぶた》を上げた。その目は深い青空の色をしていた。しかしその露《あら》わでない青みのうちには、まだ子供の目つき以外に何物もなかった。彼女は無関心にマリユスをながめた。あたかもシコモルの木の下を走る小猿《こざる》をでも見るがようで、またはベンチの上に影を投げてる大理石の水盤をでも見るがようだった。そしてマリユスの方でも、もう他の事を考えながら逍遙《しょうよう》を続けた。
 彼は娘がいるベンチのそばをなお四、五度は通ったが、その方へ目も向けなかった。
 それからまた毎日のように、彼は例によってリュクサンブールにき、例のとおり「父と娘」とをそこに見い出した。しかしもうそれを気に留めなかった。その娘が美しくなった今も、醜くかった以前と同じく、彼は別に何とも考えなかった。彼はやはり、彼女が腰掛けてるベンチのすぐそばを通っていた。それが彼の習慣となっていた。

     三 春の力

 空気の温暖なある日、リュクサンブールの園は影と光とにあふれ、空はその朝天使らによって洗われたかのように清らかであり、マロニエの木立ちの中では雀《すずめ》が小さな声を立てていた。マリユスはその自然に対して心をうち開き、何事も考えず、ただ生きて呼吸を続けてるのみで、あのベンチのそばを通った。その時あの若い娘は彼の方へ目を上げ、ふたりの視線が出会った。
 こんどは若い娘の視線の中に何があったか? マリユスもそれを言うことはできなかったであろう。そこには何物もなかった、またすべてがあった。それは不思議な閃光《せんこう》であった。
 彼女は目を伏せ、彼は逍遙を続けた。
 今彼が見たところのものは、子供の率直単純な目ではなかった。半ば開いてまたにわかに閉じた神秘な淵《ふち
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