、アンジョーラはクールフェーラックを肱《ひじ》でつっついた。
「ジャン・ジャックに対しては黙っていたまえ。僕はその男を賛美しているんだ。彼は自分の子を打ち捨てはしたさ。しかし彼は民衆を拾い上げたじゃないか。」
 その青年らはだれも、「皇帝」という言葉を口にしなかった。一人ジャン・プルーヴェールだけは時々ナポレオンと言った。ほかの者らは皆ボナパルトと言っていた。アンジョーラはブオナパルト[#「ブオナパルト」に傍点]と発音していた。
 マリユスは漠然《ばくぜん》と驚きを感じた。知恵のはじめなり[#「知恵のはじめなり」に傍点]。([#ここから割り注]訳者注 神を―帝王を―恐るるは知恵のはじめなり[#ここで割り注終わり])

     四 ミューザン珈琲《コーヒー》店の奥室

 それらの青年らの会話には、マリユスもい合わしまた時々は口出しをしたが、そのうちの一つは、彼の精神に対して真の動揺を及ぼした。
 それはミューザン珈琲店の奥室で行なわれた。その晩、ABCの友のほとんど全部が集まっていた。燈火は煌々《こうこう》とともされていた。人々は激せずしかも騒々しく、種々なことを話していた。沈黙してるアンジョーラとマリユスとを除いては、皆手当たりしだいに弁じ立てていた。仲間同士の話というものは、しばしばそういう平和な喧騒《けんそう》をきたすものである。それは会話であると同時にカルタ遊びであり混雑であった。人々は言葉を投げ合っては、その言葉じりをつかみ合っていた。人々は方々のすみずみで話をしていた。
 だれも女はこの奥室に入るのを許されていなかった。ただルイゾンという珈琲皿を洗う女だけは許されていて、時々洗い場から「実験室」(料理場)へ行くためにそこを通っていた。
 すっかりいい気持ちに酔ってるグランテールは、一隅《いちぐう》に陣取ってしゃべり立てていた。彼は屁理屈《へりくつ》をこね回して叫んでいた。
「ああ喉《のど》がかわいた。諸君、僕には一つの望みがあるんだ。ハイデルベルヒの酒樽《さかだる》が中気にかかって、蛭《ひる》を十二匹ばかりそれにあてがってやりたいというんだ。僕は酒が飲みたい。僕は人生を忘れたい。人生とはだれかが考え出したいやな発明品だ。そんなものは長続きのするものではない、何の価もあるものではない。生きることにおいて人は首の骨をくじいている。人生とは実際の役に立たない飾
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