フ上に現われて、俗語の域から文学上の言葉のうちにはいってきたのである。この語が現われたのは、クロード[#「クロード」に傍点]・グー[#「グー」に傍点]([#ここから割り注]訳者注 これも本書の作者ユーゴーの作である[#ここで割り注終わり])と題する小冊子の中であった。激しい物議を起こした。がその語は一般に通用されるに至った。
浮浪少年らの中で重きをなす原因にはきわめて種々なものがある。われわれが知ってるし交わりもしたひとりは、ノートル・ダームの塔の上から落ちる人を見たというので、ごく尊敬され感心されていた。ある者は、アンヴァリードの丸屋根につける彫像が一時置かれていた裏庭に忍び込んで、その鉛を少し「ちょろまかした」というので、ごく尊敬されていた。ある者は、駅馬車がひっくり返るのを見たというので、ごく尊敬されていた。またある者は、市民の目をほとんどえぐり出そうとしたひとりの兵士と「知り合いである」というので、ごく尊敬されていた。
パリーの一浮浪少年の次の嘆声、俗人がその意味をも解しないでただ笑い去ってしまう深い文句、それを以上のことは説明するものである。「ああああ[#「ああああ」に傍点]、いやになっちまう[#「いやになっちまう」に傍点]、まだ六階から落っこった者を見ないんだからな[#「まだ六階から落っこった者を見ないんだからな」に傍点]!」(この言葉は彼ら特有の発音で言われたのである)。
確かに次のようなのは田舎者《いなかもの》式のみごとな言葉である。「父《とっつ》あん、お前のお上さんは病気で死んだじゃないか。なぜお前は医者を呼びにやらなかったんだ?」「何を言わっしゃるだ、わしら貧乏人はな、人手を借りねえで死にますだ[#「人手を借りねえで死にますだ」に傍点]。」ところでもし田舎者の消極的な愚弄《ぐろう》が右の言葉のうちにこもってるとするならば、郭外の小僧の無政府的な自由思想は、確かに左の言葉のうちにこもってるであろう。すなわち、死刑囚が馬車の中で教誨師《きょうかいし》の言葉に耳を傾けていると、パリーの子供は叫ぶ。「あいつ牧師めと話をしてやがる[#「あいつ牧師めと話をしてやがる」に傍点]、卑怯《ひきょう》者だな[#「者だな」に傍点]!」
宗教上のことに対するある大胆さは、浮浪少年を高めるものである。唯我独尊ということが大事である。
死刑執行に立ち会うことは、一
前へ
次へ
全256ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング